「伊奈忠宥」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
新しいページ: ''''伊奈 忠宥'''(いな ただおき、享保14年(1729年) - 明和6年12月7日1770年1月3日))は[...'
 
Juqi Gui (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
1行目:
'''伊奈 忠宥'''(いな ただおき、[[享保]]14年([[1729年]]) - [[明和]]6年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]([[1770年]][[1月3日]]))は[[江戸時代]]中期の[[関東郡代]]。通称半蔵、半左衛門。官位は従五位下、備前守。[[伊奈忠逵]]の子として生まれた。[[宝暦]]4年9月5日に[[伊奈忠辰]]が致仕し、忠宥が関東郡代となる。明和元年([[1764年]])の農民20万人にも及ぶ中山道伝馬騒動を助郷賦課の取消を約束しこれを鎮圧し、これに参加した辻、中居、小渕、上新田村の名主を「役儀追放」の重刑に処した。この功により、翌年に勘定奉行となりこれを兼任する。忠宥が没したのちは、関東郡代を養子の[[伊奈忠敬]](ただひろ・[[柳沢吉里]]の六男)が継いだ。
 
{{DEFAULTSORT:いな たたおき}}