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'''大庭 景義'''(おおば かげよし、[[大治]]3年([[1128年]])? - [[承元]]4年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[1210年]][[5月3日]]))は[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]初期の[[武将]]。名は'''景能'''とも。

[[平氏|平姓]][[大庭氏]][[鎌倉景宗|大庭景宗]]の長男、[[大庭景親]]の兄。[[相模国]][[大庭御厨]]([[神奈川県]][[藤沢市]])の中の懐島郷(現・[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]])を本拠とし、「'''懐島太郎'''」を名乗りとした。妹婿に[[松田義常]]
 
若くして[[源義朝]]に忠誠を誓う。[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]においては義朝に従軍して出陣、敵方の[[源為朝]]の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した。
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[[治承]]4年([[1180年]])に[[源頼朝]]が挙兵すると、景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという。
 
その後も草創期の[[鎌倉幕府]]において、長老格として重きをなした。奥州[[藤原泰衡]]を征伐する際、頼朝は後白河法皇の院宣を得られず苦慮していた。しかし景義が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用された。後に出家している。[[嫡男]]の[[大庭景兼]]が跡を継いだ
 
[[Category:鎌倉氏|かけよし]]