「グスタフ・ブルナー」の版間の差分

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Kemeko (会話 | 投稿記録)
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=== 再びミナルディへ ===
1998年にミナルディに復帰し、1999年にテクニカルディレクターに就任した。復帰後の初作品となったのは1999年のM01で、そこそこの戦闘力を発揮し、第14戦[[ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]では、レースが大荒れとなったことにも助けられ、ミナルディにとって久々となる入賞を記録した。この入賞によりミナルディは潤沢な予算規模売りのひ持つつに鳴り物入りでこの年から参戦を開始しされた新チーム、[[B・A・R|ブリティッシュ・アメリカン・レーシング]]をシリーズランキングで下して最下位に追い落とし、同チームおよび同チーム代表の[[クレイグ・ポロック]]に嫌悪感を抱いていた関係者の溜飲を下げるとともに上回り、「最も予算規模が小さいチーム」でクルマを設計したブルナーにも注目が集まった。
 
続く2000年のM02で、低予算のミナルディながら、トップチームですら採用していなかった[[チタン]]鋳造のギアボックスを採用し、それにリアサスペンションのトーションバーを組み込むという意欲的な設計を盛り込んだ。この設計は構想倒れに終わることなく、入賞(6位以内完走)こそなかったが、数度のシングルフィニッシュ(9位以内完走)を記録するなど、M02は好走を見せた。
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この頃になると、低予算チームでも新規性に富んだアイデアを盛り込みつつ素性も良いシャシーを作る手腕が改めて評価されて注目を集め、グランプリ期間中にエイドリアン・ニューウェイなど、トップチームのデザイナーたちがミナルディのピット前で最下位であるミナルディのクルマをまじまじと観察するという様が見られるようになった。
 
2001年、この年のPS01ではプッシュロッドが主流の時代の流れに逆らい、サスペンションにプルロッドを採用した。このシャシーも関係者からの評価は悪くなかったが、ブルナーがいくらこうした工夫をこらしたところで資金力などチーム間の根本的な力の差は埋めようもなく、搭載されたコスワースエンジンすでに3年落ちの「骨董品」コスワであり、資金力なども含めた他チスエンジンムとの差を埋めるこいう状況でできず、チーム成績は低迷するほかなかった。
 
このPS01については、この年デビューの[[フェルナンド・アロンソ]]がこの不利なクルマを駆ってしばしば好走を見せた。後にアロンソがワールドチャンピオンとなったため、今日ではアロンソがF1において最初に駆ったクルマとして知られている。