「環歌子」の版間の差分

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[[1921年]](大正10年)7月、[[国際活映]][[新派]]の[[田村宇一郎]]監督作品のロケーションにエキストラ出演したところ、田村に認められ、同社の巣鴨撮影所に入社した。ここから「'''環歌子'''」を名乗る。同年[[9月17日]]公開の『秩父嵐』でスクリーンデビューを果たす。二枚目俳優[[葛木香一]]の相手役をつとめ、[[1923年]](大正12年)4月、京都に設立された牧野省三の「[[マキノ映画製作所]]」に引き抜かれる。このときの仲間に大部屋時代の阪東妻三郎がいた。はじめは現代劇女優であったが、牧野自らの監督作『加賀の若殿』で初の時代劇女優となる。従来マキノでは、女役は[[女形]]の[[花柳紫紅]]がつとめていた。このとき環はマキノのトップ女優であった<ref name="環" />。
 
阪東妻三郎第一回主演作品『鮮血の手形』前後篇でも大役をこなすが、本作に阪東を推したのは、脚本の[[寿々喜多呂九平]]のみならず、環の推薦も大きかった。阪東は本作で一躍スターとなる。1924年(大正13年)、映画女優の人気投票で6万2,674票という記録的な数値で1位を獲得している。同年6月のマキノと[[東亜キネマ]]の合併で、現代劇の東亜キネマ[[甲陽撮影所]]に移籍する。翌[[1925年]](大正14年)3月、東亜を退社した阪東に同行し[[阪東妻三郎プロダクション]]に入社、寿々喜多脚本、[[二川文太郎]]監督の傑作『[[雄呂血]]』に、阪東演じる久利富平三郎の破滅の原因となる女を演じる。同作きりで退社、[[河野正一]]と結婚する<ref name="環" />。24歳であった。
 
[[1926年]](大正15年)9月、[[マキノ・プロダクション]]に復帰、御室撮影所に入社、「'''玉木悦子'''」を名乗った。[[日活]]・東亜キネマとの競作、[[吉川英治]]原作の『[[鳴門秘帖]]』では、日活の[[酒井米子]]、東亜の[[原駒子]]と同役(見返りお綱)を競った<ref name="環" />。