「ニノ・ブルジャナゼ」の版間の差分

編集の要約なし
m (ロボットによる 追加: cs:Nino Burdžanadze)
[[Image:Nino Burdschanadse.jpg|thumb|right|ニノ・ブルジャナゼ]]
'''ニノ・ブルジャナゼ'''([[グルジア語]]:ნინო ბურჯანაძე [[英語]]転記:'''Nino Burjanadze''' [[1964年]][[7月16日]] - )は、[[グルジア]]の法律家で、[[政治家]]、[[国会議員]]。[[2001年]]11月9日からグルジアの女性として歴史上はじめて、グルジアの国会議長をつとめている。[[エドゥアルド・シェワルナゼ]][[大統領]]の辞任後、[[ミヘイル・サアカシュヴィリ]]大統領が選出されるで約4ヶ月間、た2度に渡り同国の暫定大統領を務めた。
 
ブルジャナゼは、1964年7月16日に同国クタイシに生まれた。[[1986年]]に、[[トビリシ国立大学(Tbilisi State University)]][[法学部]]を[[卒業]]し、[[1986年]]から[[1990年]]まで[[モスクワ大学|モスクワ国立大学]]に留学。[[1990年]]に、[[国際法]]の[[博士]]としてモスクワ国立大学を卒業した。その後[[1991年]]からトビリシ国立大学[[法学部]]の[[助教授]]を務めた。
 
ブルジャナゼは親欧派とみられている。彼女自身、[[グルジア]]は一刻も早く[[欧州連合|EU]]および[[北大西洋条約機構|NATO]]に加入すべきだと述べたことがある。
 
[[1995年]]に[[国会議員]]に初めて当選する。これ以前から彼女は[[エドゥアルド・シェワルナゼ]][[大統領]]の[[政党]]であるCUG(Citizen’s Union of Georgia、[[グルジア市民連合]])に所属していた。彼女は[[1999年]]までグルジア[[法務省]]長官も務めており、その後は[[外務大臣]]に就任。[[2000年]]からはOSCE(Operation of Security and Co-operation of Europe、[[欧州安全保障協力機構]])の副議長を務め、[[2001年]]から2002年にかけてはPABSEC(Parliamentary Assembly of the Black Sea Economic Co-operation、[[黒海経済協力機構]])議会集会委員長も歴任した。
 
[[2003年]][[11月2日]]に行われた[[グルジア]][[大統領]][[選挙]]では、[[出口調査]]の結果などから開票の不正がささやかれており、アメリカ合衆国はこれに対して非難を表明していた。しかし、2003年11月22日には[[エドゥアルド・シェワルナゼ]][[大統領]]率いる「選挙に基づいた」議会が招集された。
 
この議会開会式には選挙のやり直しを求めた反対派の[[議員]]は出席せず、議場の外には不正な[[選挙]]に激怒した[[市民]]が押しかけた。[[エドゥアルド・シェワルナゼ]][[大統領]]が開会の辞を朗読すると、場外に押しかけていた[[市民]]25,000人が議場へと一気に突入する事態になった。この混乱によって[[エドゥアルド・シェワルナゼ]][[大統領]]は[[首都]]トビリシから逃亡し、翌[[11月23日]]には[[大統領]]辞任を表明した。
 
[[大統領]]辞任を受け、当時最大の[[野党]]「ブルジャナゼ・労働党」の[[党首]]であったブルジャナゼが、翌年[[1月25日]]まで暫定[[大統領]]に就任した。翌年[[1月4日]]の大統領選挙でミヘイル・サアカシュヴィリが後任に決まったが、[[12007年]][[11月25日]]に退同大統領が辞任した際、翌年[[1月5日]]の大統領選挙でサアカシュヴィリが再任されるまでの間、再び暫定大統領に就任した。
 
==関連項目==
匿名利用者