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'''白河'''(しらかわ・'''白川''')とは、かつて[[京都]]洛外、[[山城国]][[愛宕郡]]に属していた[[白川 (淀川水系)|白川]]流域を指す名称。本来は白川の南側地域のみを指していたが、後に北側地域も含むようになり南側を「南白河/下白河」北側を「北白河」・と称した(『[[山城名勝志]]』)。現在では[[京都市]]でも南白河は[[東山区]]に属する'''[[岡崎 (京都市)|岡崎]]'''・北白川は[[左京区]]に属する'''[[北白川]]'''に分割されている。
白川流域のうち、現在の東山区岡崎を中心として、北は北白川・東は[[東山]]・南は岡崎もしくは[[粟田口]]・西は[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]に囲まれた地域とされている。白川が形成した[[扇状地]]には[[縄文時代]]の住居跡が遺されるなど、有史以前から人間が居住していたと考えられている。
[[平安京|平安]][[遷都]]直後の白河は[[鳥辺野]]などとともに葬送地であった。また、粟田口は[[逢坂関]]への入口であり、平安京から[[近江国]]を経て[[東国]]に至る道の起点として重要視された。また、白川上流の東山を越える山中越もこれを補完する経路として重要視された。ところが、[[藤原良房]]が白河に別業(別荘)である[[白河殿]]を造営して以後、別業・寺院の建立が相次いだ。庶流にあたる[[藤原済時]]や[[藤原公任]]も白河に別業を設けたとされている。白河殿は[[藤原師実]]の代に時の[[白河天皇]]に献上される。白河天皇は師実実兄の[[覚円]]を[[別当]]とした[[法勝寺]]が造営された。後に歴代天皇・皇后によって建てられた5つの寺院とともに「[[六勝寺]]」と呼ばれた。また、白河天皇は退位後の[[寛治]]4年([[1090年]])頃に旧の覚円の僧房を御所(白河泉殿)とし、続いて[[永久 (日本)|永久]]3年([[1115年]])に白河泉殿を改築して白河南殿を造営、更に[[元永]]元年([[1118年]])にはその隣接地に白河北殿を新造して2つの御所を行き来しながら[[院政]]を行った。白河が事実上の政治の中心となったため、本来は平安京の外であった白河が「京白河」と称された。だが、[[源平合戦]]で交通の要所であった白河の地は荒廃し、窮民によって御所や寺院が荒らされていく様子が『[[玉葉]]』などに記されている。
[[鎌倉時代]]に入ると、白河の中心部は「岡崎」と称されるようになり、[[後鳥羽上皇]]が[[承元]]2年([[1208年]])に白河に御所を造営した際も「岡崎御所」と称されて(『[[百錬抄]]』)以後、岡崎という呼称も用いられるようになる。この時代には岡崎(白河)の住宅地かが進み、元来白河に含まれていなかった白川の北側も含めるようになる。また[[南禅寺]]も創建された。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の法勝寺の火災も近くの民家火災によるとされている(『[[太平記]]』)。
[[室町時代]]には南白河においては、「岡崎」の呼称が定着し、「白河」という地名は白川の北側の「北白川」を指すようになっていく。だが、[[応仁の乱]]では岡崎が戦場となり、北白川も目前の東山に[[北白川城]]が築かれて度々攻防戦が行われるなど、[[戦国 (日本)|戦国]]乱世の影響を確実に受けている。その一方で、北白川では[[水車]]による精米作業や「[[白川女]]」による[[花]]の[[行商]]などの活動で知られるようになる。
[[江戸時代]]には、北白川のみをもって「白川村」を構成し、[[明治]]以後も愛宕郡[[白川村]]に引き継がれていく。一方、岡崎は早くも明治21年([[1888年]])に京都市[[上京区]](当時)に編入されて京都市の一部として[[市制]]確立を迎えている。明治29年([[1896年]])には[[平安神宮]]が創建されるなど、京都市中心部との一体化が進んだ。明治30年([[1897年]])に白川村内に[[京都帝国大学]][[理学部]]が設置されると、北白川もまた学生街としての要素を帯び始めていく。[[大正]]7年([[1918年]])に白川村は京都市上京区に編入された。[[昭和]]4年([[1929年]])の京都市の区の再編に伴い、岡崎は東山区、北白川は左京区に属するようになった。
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