「明帝 (北周)」の版間の差分

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|姚夫人
|静陵
|[[武成 (北周)|武成]]:[[559年]]-[[560年]]
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== 略歴 ==
[[548年]]、寧都郡公に封ぜられた。[[西魏]]の恭帝3年([[556年]])に大将軍となり、[[隴西]]地方(現在の[[陝西省]])を守備、統治した。異母弟の[[宇文覚]]が皇帝([[孝閔帝]])に即位した際に[[柱国]]に任じられ、岐州[[刺史]]として善政を行なった。宇文覚が廃位されたとき、従兄の晋公[[宇文護]]は宇文毓を[[岐州]]に新皇帝として迎えようとした。しかし宇文毓は故郷にとどまり皇帝の地位を辞退、群臣たちの上表が行われ皇帝の乗り物である[[法駕]]を用意して迎えようとしたが宇文毓は更に固辞した。しかし群臣たちの重ねての要請を容れ、宇文毓は[[天王]]への即位を承諾、[[557年]]に[[大赦]]を行い、弟の大将軍輔城公[[武帝 (北周)|宇文邕]]を柱国とした国家体制を整える。
 
[[558年]]、[[大冢宰]]の宇文護を[[太師]]とし、独孤氏を皇后に立てる。[[559年]]には[[雍州]]刺史を雍州牧に[[京兆]]郡守を京兆尹に改称している。[[北魏]]が[[洛陽]]に[[遷都]]して以降は国人は河南人と、また北周は[[関中]]に都城を設けていることから、関中に居住する者を京兆人とする呼称を定め、中原王朝としての体裁を整えると共に太師宇文護を[[雍州]]牧に任じ統治体制の強化を図った。同年には[[エフタル]]と[[突厥]]の使者が来朝し、朝貢が行われている。
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また[[周暦]]を作らせた。柱国、輔城公宇文邕を[[大司空]]に任じた。また、[[西魏|魏]]の時代の盗みや着服はその罪に問責しないことにしたが、追求するものがいて事実関係が明らかになった場合は、法に定めてあるようにそれ相応の補償をさせるように勅令を出した。賀蘭祥は[[洮陽]]、[[洪和]]の2城を攻め落としたので、吐谷渾は逃げ帰った。[[西域]]の高昌国([[トゥルファン]])国が使者を来朝させ、朝貢した。
 
激しい長雨があったので、[[公卿]]、[[卿]]、[[大夫]]、[[士]]のみならず、各地の牧、守、庶民にいたるまで、天子のみに直接挙げる上奏文、直言をするよう命じる勅令を出した。災害の様子を官吏を各地に派遣して掌握させた。そして、宇文泰が[[夏州]]に攻め込んで征服したときに戦死した遺族に金銭や絹を与えたように、この災害で妻子を失ったものには同じように金銭や絹を与える勅令を出した。この年、天王を改めて皇帝を称し、父の文王・宇文泰を文皇帝と追尊した。また、[[武成 (北周)|武成]]元年と改元した。
 
[[560年]]、[[突厥]]の使者をふたたび群臣とともに迎えた。
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*[[司馬光]]編『[[資治通鑑]]』巻一百六十七陳紀一高祖武皇帝、巻一百六十八陳紀二世祖文皇帝
 
{{先代次代|[[北周]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第2代:557年 - 560年|[[孝閔帝 (北周)|孝閔帝]]|[[武帝 (北周)|武帝]]}}
 
{{DEFAULTSORT:めいてい}}