「アンドロノヴォ文化」の版間の差分

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[[Image:Andronovo culture.png|thumb|325px|アンドロノヴォ文化の最大領域を橙色で示す。シンタシュタ・ペトロフカ文化を赤色で示す。初期のスポーク型車輪つきチャリオットの出土範囲を紫で示す。隣接または重複する文化(アファナシェヴォ文化、スルブナヤ文化、バクトリア・マルギアナ考古複合BMAC)をそれぞれ緑で示す。]]
 
'''アンドロノヴォ文化'''(アンドロノヴォぶんか、Andronovo culture)とは、[[紀元前]]2300年から1000年頃の[[青銅器時代]]に、[[中央アジア]][[ステップ地帯]]から[[シベリア]]南部の広い範囲に見られた、類似する複数の文化をまとめた名称である。単一の文化ではなく、考古文化複合またはホライズンと呼ぶ方が適切である。[[アーリア人]]([[インド・イラン語派]]の言語を話す[[アーリア々)]]との関係が有力視されるが、インド・イラン方面の古文化と直接結び付かないとする批判もある。
 
アンドロノヴォは[[1914年]]に[[墳墓]]の[[発掘調査]]が行われ、[[屈葬]]された人骨や装飾土器が発見された[[アチンスク]]近く([[エニセイ川]]流域に属する[[アチンスク]]付近の村の名である。
 
時代的・地域的に少なくとも4つの文化が区別に細分される。[[カスピ海]]・[[アラル海]]北側の南[[ウラル山脈|ウラル]]地域から始まり、東および南に拡大したとされる。
*シンタシュタ・ペトロフカ・アルカイム(Sintashta-Petrovka-Arkaim)文化:ウラル南部、[[カザフスタン]]北部、紀元前2200-1600年頃。[[チェリャビンスク州]]シンタシュタ遺跡は紀元前1800年頃、近くのアルカイム遺跡は紀元前17世紀とされる。
*アラクル(Alakul)文化:[[アムダリヤ]]・[[シルダリヤ]]両川間の[[キジルクム砂漠]]、紀元前2100-1400年頃。
*アレクセーエフカ(Alekseyevka)文化:カザフスタン東部、紀元前1300-1000年頃の青銅器時代末。[[トルクメニスタン]]のナマズガ(Namazga)VI期([[バクトリア・マルギアナ考古複合]]に含まれる)と接触した。
*フェドロヴォ(Fedorovo)文化:紀元前1500-1200年頃、シベリア南部。[[火葬]]と[[拝火]]の証拠が見られる最初期の例。
*ベシケント・ヴァクシュ(Beshkent-Vakhsh)文化:紀元前1000-800年頃、[[タジキスタン]]。
 
地理的には非常に広大な範囲に及ぶ。西端ではヴォルガ・ウラル方面の同時期の[[スルブナヤ文化]]と重なり、東では先立つ[[アファナシェヴォ文化]]の領域と重なりシベリア南部に及ぶ<ref>{{Harvcolnb|Mallory|1989|p=Mallory(1989)p.62}}</ref>。南ではトルクメニスタン、タジキスタン([[パミール高原]])、[[キルギスタン]]([[天山山脈]])にまで遺跡が分布する。北端は[[タイガ]]の南端にほぼ一致する。[[ヴォルガ川]]流域ではスルブナヤ文化との接触が顕著で、西は[[ヴォルゴグラード]]までフェドロヴォ式土器が見出されている。
 
紀元前2千年紀初めから半ばにかけてアンドロノヴォ文化は東への急速な拡大を見せた。[[アルタイ山脈]]では銅山が採掘された。埋葬には石棺または石囲いが用いられ、さらに木槨で囲まれた。生活様式は[[馬]]、[[牛]]、[[羊]]などの[[牧畜]]が中心で、[[農耕]]も行われた。
 
==インド・イラン民族との関係==
アンドロノヴォ文化の分布地域は[[インド・イラン語派]]の発祥地と目される地域に重なり、また紀元前2000年頃に[[スポーク]]型車輪のついた[[チャリオット]]<ref>のちにインドや中近東各地で用いられた二輪戦車</ref>を発明したとも考えられているため、この語派との関係が有力視されてきた。
 
[[ウラル川]]上流部にあるシンタシュタ遺跡は、チャリオットが墓の副葬品として発掘されたので有名である。[[クルガン]](墳丘)で覆われ、動物(馬と犬)も殉葬された。シンタシュタや他のヴォルガ・ウラル地域の遺跡は原インド・イラン民族のものと考えられてきた。
 
しかしアンドロノヴォ文化をインド・イラン系とする説に対しては、特徴的な木槨墓がアムダリヤ以南のステップには見られないとの反論がある。また南方の[[バクトリア]]・[[マルギアナ]]のオアシス地帯に同時期栄えた[[バクトリア・マルギアナ考古複合]](BMAC)こそが原インド・イラン民族の文化であるとする主張もある(サリアニディSarianidiら)。サリアニディは「考古学的データから、アンドロノヴォ文化のBMACへの侵入はごくわずかであった」(Sarianidi;<ref>ブリアントBryant 2001:207を参照</ref>という。
 
Kuz'mina(1994)は、インド・アーリア語が近東の[[ミタンニ]]と[[ヴェーダ]]時代のインドでこの地域としては初めて使われたこと、チャリオットの出たシンタシュタ遺跡が紀元前16-17世紀とされることを根拠に、この文化はインド・イラン系であるとする。
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一方Klejn(1974)とブレンチェスBrentjes(1981)は、チャリオットを使うアーリア人が紀元前15-16世紀までにはミタンニに現れていることから、この文化は原インド・イラン系とするには遅すぎるとしている。ただしAnthonyとヴィノグラードフVinogradov(1995)はクリヴォエ湖(Krivoye ozero)で発掘されたチャリオットを紀元前2000年頃のものとしていることから、この批判は必ずしも成り立つものではない。
 
マロリーMallory(BryantMallory<ref>Bryant 2001:216を参照</ref>はアンドロノヴォ文化を北インドにまで拡大したと見るのは非常に困難だとし、その南端に当たるベシケント・ヴァクシャ文化も中央アジアに止まり、インド・イランには結び付けられないとする。
 
==その後==
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南シベリアとカザフスタンではアンドロノヴォ文化は[[カラスク文化]](紀元前1500-800年頃)に引き継がれる。この文化の担い手は非印欧民族といわれる一方で、原イラン民族との推定もある。
 
西端部ではスルブナヤ文化に引き継がれるが、これは部分的には[[アバシェヴォ文化]]にも由来する。この地域で初めて歴史に登場する民族は[[キンメリア人]]と[[サカ]]または[[スキタイ人]]で、アレクセーエフカ文化の後、[[アッシリア]]の記録に現れる。彼らは紀元前9世紀頃[[ウクライナ]]に、また紀元前8世紀頃[[カフカス山脈]]を越えて[[アナトリア]]とアッシリアに現れた。また西では[[ヨーロッパ]]に移動して[[トラキア人]]やシギュンナイ人Sigynnae(Sigynnae<ref>[[ヘロドトス]]によれば[[ドナウ川]]の向こう、トラキアの北に、[[ストラボン]]によればカスピ海近くにいたといい、両者ともイラン系としている</ref>となった可能性がある。
==脚注==
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<references/>
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==文献==