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'''今川 範忠'''('''いまがわ のりただ'''、[[1408年]]
通称は今川彦五郎。最晩年に父が家督を末弟の[[今川千代秋丸]]に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった。[[1433年]]、父が死去すると、[[鎌倉公方]]の[[足利持氏]]との対抗上から、幼年の千代秋丸より成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた将軍・[[足利義教]]の裁定により、家督を継いで当主となった。このとき、一部の反対派が蜂起したが、義教の強い支持を背景としてこれを鎮圧している。これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、[[永享の乱]]や[[結城合戦]]では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。[[1455年]]には将軍・[[足利義政]]から[[古河公方]]・[[足利成氏]]討伐を任じられているが、それは実現させることができずして終わった。範忠が病に倒れていたためとも、領国を離れて遠征することができなかったためとも言われている。1461年に死去(没年には異説がある)し、後を子の[[今川義忠]]が継いだ。
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