「朽木元綱」の版間の差分

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[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では、当初は[[大谷吉継]]に従って西軍に属したものの、[[小早川秀秋]]に呼応して[[脇坂安治]]や[[小川祐忠]]、[[赤座直保]]らとともに東軍に寝返った。戦後、通款を明らかにしなかったとの理由により減封(9550石)されたが、のち大名に復帰している。
 
元綱の死後、その遺領は[[朽木宣綱]]・[[朽木友綱]]、[[朽木稙綱 (土浦藩主)|稙綱]]3子に分割したために、朽木宗家は[[大名]]の資格を失って[[旗本]](4700余石)となった。だが、末子の稙綱が、[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家光]]の信頼を受けて大名として取り立てられたために、嫡流よりも庶流のほうが所領が上回るという現象が起きている。
 
== 関連項目 ==