ホーム
おまかせ表示
付近
ログイン
設定
寄付
ウィキペディアについて
免責事項
検索
「山県周南」の版間の差分
言語
ウォッチリストに追加
編集
履歴の双方向閲覧
← 古い編集
新しい編集 →
削除された内容
追加された内容
ビジュアル
ウィキテキスト
2008年3月1日 (土) 06:22時点における版
編集
Ekhiro
(
会話
|
投稿記録
)
9
回編集
→生涯
← 古い編集
2008年3月1日 (土) 06:40時点における版
編集
取り消し
Ekhiro
(
会話
|
投稿記録
)
9
回編集
→学統
新しい編集 →
20行目:
== 学統 ==
徂徠が未だ名を成さない頃から従った愛弟子であり、長州藩に、また西日本に徂徠学を普及させる一大要因となった。
ただし、
末流といえる広瀬淡窓の儒林評では格別に古文辞を固守するようなところは無いとされ、彼自身仁斎学にも共感を示し、伊藤東涯と度々交渉を持つなど開けた学問交流を行っていた
。ただし、日野龍夫氏によれば、その詩文の作風については古文辞風という以外に格別の特徴はないという
。
また、京都の古医方派と親しく、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞などの医師と交流が深かったことも特筆される。
== 著作 ==