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もともと父親の松倉重政とともに[[大和国]][[五條市|五条]]にいた松倉勝家が慶長20年([[1615年]])の[[大坂の役|大坂夏の陣]]の功により[[有馬晴信]]の旧領であった肥前国日野江4万3千石を与えられ、そこへ移ったのは[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])のことであった。
 
父と共に、[[島原城]]とその城下町の新築、[[ルソン]]([[フィリピン]])遠征の準備(実施せず)、[[参勤交代]]のため費用の捻出など種々の口実によってを設け、領民から過酷な年貢の取り立て・労役行い、さんざん使役した。また独自に行った[[検地]]では4万石程度の石高にもかかわらず10万石と過大に見積もるなど、藩政において当から無理があり、領民の蜂起は時間の問題であった。さらに領内に多かった[[キリシタン]]への弾圧も残酷をきわめた。
 
寛永7年([[1630年]])に父の重政が急逝すると、後をついだ藩主となった勝家は父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民を苦しめた。寛永11年([[1634年]])になると悪天候と旱魃(かんばつ)が凶作を引き起こしたが、勝家はたとえ凶作でも容赦せず、重い年貢の取立てを行った。米や農作物の取立てだけでなく、重ねて人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して取り立てたことは多くの記録によって証言されている。(『鍋島勝重公譜』、オランダ商館長([[カピタン]])[[ニコラス・クーケバッケル]]の日記など)
 
やがて松倉勝家は年貢を納められない農民やその責任者である庄屋の妻や娘を人質にとるようになる。前述のクーケバッケルや島原の乱の記録を残した[[長崎市|長崎]]の[[ポルトガル]]人[[ドアルテ・コレア]]は、娘や子供が蓑を着せられ、それに火をつけて苦しむ姿を「蓑踊り」と呼んでいたという記録を残している(蓑踊りが処刑だったか、それとも拷問の手段だったかは今でも疑問が多い)。
 
黒田長興一世之記によれば寛永14年([[1637年]])10月、口の津村の庄屋与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。庄屋宅では人々が何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう納めるものは何もなかった。6日間苦しんだ後、庄屋の妻は水中で赤ん坊を産み落とした後、母子ともに絶命した。[[10月25日]]、耐えかねた領民はついに蜂起し、代官を殺害した。これが島原の乱の始まりである。
 
乱の鎮圧後、松倉勝家は悪政の責任を問われ、寛永15年([[1638年]])4)[[4124]]、[[寺沢堅高]]([[唐津藩|唐津藩主]])と共[[改易]]。所領を没収され、[[4月12日]]には[[美作国]][[津山藩]]藩主[[森長継]]に預けられた。嶋原一揆松倉記によれば、屋敷にあった桶の中から農民と思われる死体が出てきたため、これが決め手となり、5月になって取り調べのため江戸に召喚護送され、同年[[7月19日]]に江戸の森家下屋敷で斬首に処せられた。通常、大名が不名誉な斬首に処せられることはなかったので、いかに幕府が勝家の苛政を重罪として扱ったかがわかる(ただし切腹とも言われている)。松倉家は断絶し、[[高力忠房]]が[[遠江国]][[浜松藩]]より移ってあと島原藩を継いだ。
 
{{先代次代|[[島原藩|松倉氏(島原藩2代)藩主]]|1630 - 1638|[[松倉重政]]|[[高力忠房]]}}