「マックス・ベア (ジャーナリスト)」の版間の差分
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== 略伝 ==
現在はポーランド領である[[ガリチア]]にあるタルノブジェク([[:
[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]がイギリスを去ってドイツに戻ったため、ベアは「フォルヴェルツ」紙のイギリス通信員となるよう要請され、[[1902年]]から[[1912年]]までその地位にあった。第一次世界大戦中の[[1915年]]に敵性外国人としてドイツに追放され、[[1919年]]から[[1921年]]まで「鐘 Die Glocke」紙を編集。この「鐘」は、ドイツ社会民主党の極右に属し、レンシュやヘーニッシュやクノーの仲間であった[[アレクサンドル・パルヴス]]に資金提供されていたのだが、ベアは社会民主党の政治的道具から「鐘」を脱却させ、むしろ文化評論や教育的な紙面作りをめざしたためにパルヴスによって解雇されたという。1919年以後のドイツ革命に関するベアの見解は、社会民主党の[[フリードリヒ・エーベルト]]とノスケがナチズムへの道を準備した、というものだった。[[1927年]]からリャザノフの要請によりモスクワのマルクス・エンゲルス研究所で、[[1929年]]からはフランクフルトの社会調査協会([[:en:Institut für Sozialforschung|Institut für Sozialforschung]])で活動し[[ドイツ共産党]]に所属していたが、ナチスの権力奪取により[[1933年]]にはロンドンへの亡命を余儀なくされ、そこで亡くなっている。
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