「マックス・ベア (ジャーナリスト)」の版間の差分

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現在はポーランド領である[[ガリチア]]にあるタルノブジェク([[:en:Tarnobrzeg|Tarnobrzeg]])に生まれた。[[1889年]]にドイツに移住して「マークデブルク・フォルクスシュティンメ [[:de:Magdeburger Volksstimme|Magdeburger Volksstimme]]」紙の編集者となり、その8ヶ月後に階級闘争をけしかけドイツ軍と官憲を侮辱した罪で逮捕され、有罪判決をうけ10ヶ月の禁固刑を科せられた。[[1894年]]6月にはイギリスに移住し、翌年から1年間は[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]]で学ぶ。[[1897年]]にはパリに赴き、そこで[[ドレフュス事件]]を見聞している。さらにニューヨークへ渡り、[[1898年]]から[[1902年]]における[[米西戦争]]やフィリピン人の反乱を知り、後にアメリカの覇権主義の成立として[[ドイツ社会民主党]]の「ノイエ・ツァイト [[:en:Neue Zeit|Neue Zeit]]」紙や「フォルヴェルツ Vorwärts」紙に分析を提供することになる。ベアは「ミュンヒェナー・ポスト」紙や「ジューイッシュ・アルバイター・ツァイトゥング」紙の通信員でもあり、「[[エンサイクロペディア・ジュダイカ]]」の編集にも協力している。
 
[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]がイギリスを去ってドイツに戻ったため、ベアは「フォルヴェルツ」紙のイギリス通信員となるよう要請され、[[1902年]]から[[1912年]]までその地位にあった。第一次世界大戦中の[[1915年]]に敵性外国人としてドイツに追放され、[[1919年]]から[[1921年]]まで「鐘 Die Glocke」紙を編集。この「鐘」は、ドイツ社会民主党の極右に属し、レンシュやヘーニッシュやクノーの仲間であった[[アレクサンドル・パルヴス]]に資金提供されていたのだが、ベアは社会民主党の政治的道具から「鐘」を脱却させ、むしろ文化評論や教育的な紙面作りをめざしたためにパルヴスによって解雇されたという。1919年以後のドイツ革命に関するベアの見解は、社会民主党の[[フリードリヒ・エーベルト]]と[[グスタフ・ノスケ]]([[:en:Gustav Noske|Gustav Noske]])がナチズムへの道を準備した、というものだった。[[1927年]]から[[ダヴィド・リャザノフ]]([[:en:David Ryazanov|David Ryazanov]])の要請によりモスクワのマルクス・エンゲルス研究所で、[[1929年]]からはフランクフルトの社会調査協会([[:en:Institut für Sozialforschung|Institut für Sozialforschung]])で活動し[[ドイツ共産党]]に所属していたが、ナチスの権力奪取により[[1933年]]にはロンドンへの亡命を余儀なくされ、そこで亡くなっている。