「ウラジミール・ジャンケレヴィッチ」の版間の差分

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AlainB. (会話 | 投稿記録)
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== 生涯 ==
[[ユダヤ]]系[[ロシア]]人の子としてフランスのブールジュに生まれる。パリの[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]を卒業後、[[1926年]]には[[アグレガシオン]](1級教員資格)に首席で合格。[[1927年]]から[[1932年]]までプラハのフランス学院に勤務。[[1931年]]にベルクソン論を出版、ベルクソン本人からも激賞される。[[1933年]]に学位論文『[[フリードリヒ・シェリング|シェリング]]後期哲学における意識のオデュッセー』を提出。その後各地で教職につくが、第二次大戦が起こり軍に召集され、負傷。だが負傷中に[[ヴィシー政権]]の対ユダヤ人政策よって除隊、さらに教職剥奪という事態に遭遇し、[[レジスタンス運動]]活動に身を投ずることとなる。終戦後、ラジオ音楽放送の顧問を務めた後、教職復帰。[[1949年]]に『徳論』を出版。[[1951年]]よりパリ大学道徳哲学教授を務めた。[[1978年]]の定年後も、なお3年間名誉教授として講義を続ける。
 
その誠実さから、[[1968年]]の[[五月革命]]でも学生から信頼を得ていた数少ない知識人であった。その倫理学に関する講義は市民に開放されるとともにラジオにより公共に放送されていた。 体系化・分類化を拒絶した繊細な道徳論を展開。その著作の文体は詩的にして流麗。また音楽論を展開。「生きた、愛した、存在した」の哲学者。