「宇宙開発競争」の版間の差分

ソ連の宇宙開発初期の成功後、特にガガーリンの宇宙初飛行後、ケネディ大統領とジョンソン副大統領はより強力に大衆の想像力をかきたてる宇宙計画は何であるか、探し続けていた。その結果アメリカはより遠い目標である月探検を、10年以内で達成するという公約を打ち出した。[[1961年]][[5月25日]]の連邦議会特別両院合同会議の席上、ケネディはこの公約を言明し、月軌道周回という内部研究にすぎなかったアポロ計画の目標が月へと変わった。以後、マーキュリーやジェミニといった有人飛行計画やその他の月探査計画は、月に人類を送り込むアポロ計画のための技術開発や飛行士訓練、現地調査の一環となった。
 
巨額を要するアポロ計画は多くの反対にさらされ、それゆえ左右の政治家による異論を一掃するだけの成果を上げる必要があった(右派政治家は宇宙開発費を[[ベトナム戦争]]勝つための戦費や兵器開発に回すことを主張し、左派政治家は社会[[福祉]]や根深い人種問題の解決などに予算を回すべきだと主張したアポロ計画推進派が主張した実利は以下のようなものがあった。
* アポロは次回の[[選挙]]で鍵となる州に対して経済効果を約束し、与党の勝利を確実にできる。
* アポロの技術は軍事利用できるため、1960年の選挙でケネディが触れた米ソの「[[ミサイル・ギャップ論争|ミサイル・ギャップ]]」を埋めることができる。
* アポロから多くの科学技術がスピンオフすることにより新製品ができ社会や経済が活性化する。
 
ケネディはNASAの第二代長官ジェームズ・E・ウェッブとの会話で次のように話した(ジョン・F・ケネディ図書館に保管されたテープより)
: われわれが行う全ては、ロシア人より先に月に降り立つ事業にきちんと結びつける必要がある・・・そうでなければわれわれはこんな金を使うべきではない、私は宇宙には興味がないからだ・・・(このような出費が)正当化されるのはただ、神に懸けてきっと数年以内に彼らを追い越し、アメリカの方が遅れていると思っている世界に成果を見せ付けて、ソ連を打ちのめすという希望があるからだ。
 
[[Image:Soyuz rocket.jpg|left|thumb|この写真のようなソ連のソユーズロケットが、信頼のおける初の地球周回軌道への輸送手段となった。]]
 
ケネディは米ソ両国の飛行士による月着陸や、より高性能の[[気象衛星]]などの共同計画の提案をソ連にしたことがあった。フルシチョフは、ソ連の進んだ技術を盗もうとする意図を感じてこの提案を拒否した。ソ連宇宙開発の「主任設計員」コロリョフは、月に人間を送る能力を有する'''[[ソユーズ]]'''宇宙船と打ち上げ用[[N-1|N1ロケット]]からなるアイデアの提案に奔走していたが、これに対しフルシチョフはコロリョフの研究機関([[コロリョフ設計局]])に、現行のボストークの技術を用いて改良し、さらなる「宇宙初」の事業に挑むよう命令した。しかしその裏で、コロリョフと確執のある[[ウラジミール・チェロメイ]](Vladimir Chelomei)指揮する別の開発機関は「[[チェロメイ設計局]]」が、有人での月-地球間往復ミッション('''[[ソユーズL1計画|ゾンド計画]]''')のために、全く新しい打ち上げロケットと宇宙船である[[プロトンロケット]]と[[ゾンド]]宇宙船開発に着手していた。[[1964年]]、フルシチョフ失脚後の新しい指導部はコロリョフの月着陸計画に全面的な支援を与え、全ての有人飛行計画を彼の指揮下に置かせた。月着陸ミッション・'''[[ソユーズL3計画]]'''計画の始まりである。だが[[1966年]]にコロリョフが急死し、最初のソユーズ宇宙船・[[ソユーズ1号]]が[[1967年]]に死亡事故を起こすと、[[ソ連の有人月旅行計画]]は指導者を失ったことと犠牲に敏感になったことで破綻をきたすようになった。ソ連は月着陸船を建造し、[[アレクセイ・レオーノフ]]を月面に立たせるはずの月旅行計画のために飛行士の選抜を行った。しかし肝心の打ち上げ用N1ロケットが1969年打ち上げに失敗し、以後どうしても打ち上げを成功させることができなかった。このため有人月着陸計画は遅れが生じ、ついには中止の憂き目にあってしまった。
 
=== アポロ11号、月に一番乗り ===
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