「弦楽五重奏曲 (ブルックナー)」の版間の差分

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==作曲・初演の経緯==
この曲が作曲された[[1879年]]は、ブルックナーが55歳であり、[[交響曲第5番 (ブルックナー)|交響曲第5番]]、[[交響曲第6番 (ブルックナー)|交響曲第6番]]など円熟期の傑作を書いていた時期である。この弦楽五重奏曲が作曲されたのは、当時[[ウィーン]]で著名な[[ヴァイオリニスト]]兼[[指揮者]]であった、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー(1世)からの勧めによると言われる。ヘルメスベルガーは、[[弦楽四重奏団]]で第1ヴァイオリンを担当し、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の演奏で定評を得るなど、[[室内楽]]の分野においても著名な演奏家だった。ブルックナーが、室内楽曲において典型的な[[弦楽四重奏]]の編成ではなく、弦楽五重奏を採用したのは、内声部の充実と、声部の動きの広がりを追求したためと考えられる。
 
作曲は、[[1878年]]12月から、[[1879年]][[7月12日]]にかけて行われた。しかし、ヘルメスベルガーは、[[スケルツォ]]がよくないと評し、ブルックナーに改作を要求する。そこでブルックナーはスケルツォに替えるものとして「間奏曲 (Intermezzo)」を[[1879年]][[12月21日]]に完成させた。こうして完成した弦楽五重奏曲ヘ長調だが、ヘルメスベルガーはなかなか演奏をしなかった。これは、ブルックナーの作品は常に[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]や批評家の[[エドゥアルト・ハンスリック]]に酷評されていたためので、この論争に巻き込まれなくなかったためと考えられる。
 
初演は[[1881年]][[11月17日]]にようやく行われた。ウィーンのベーゼンドルファーホールで、ワーグナー協会の催しとして、非公開で行われたものである。演奏はブルックナーの弟子らによって行われている。この非公開の演奏会のあと、ブルックナーは間奏曲の楽章をもとのスケルツォに戻している。外された「間奏曲」は、オペラの間奏曲のように明るい曲で、ウィーンらしさをたたえた楽しい小品として、今日この弦楽五重奏曲ヘ長調とは別途に出版されている。
 
公開初演は、作曲後6年を経た[[1885年]][[1月8日]]にウィーンにて、作曲を勧めたヘルメスベルガーの弦楽四重奏団らによって行われ成功を収めた。ただしブルックナーは、この曲をヘルメスベルガーには捧げず、[[バイエルン王国|バイエルン]]のマシミリアン・エマヌエル公(オーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]の弟)に捧げている。
 
==曲の特徴・構成==
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