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[[元始 (漢)|元始]]1年([[1年]])、甄豊は光禄勲から離れ、同年2月までには左将軍に遷る。これと同時に、または後に、少傅も兼任し、太傅王莽、太師[[孔光]]、太保[[王舜]]とともに四保となった。この年の2月、光禄勲、左将軍就任時に、宗廟を安んじる策を定めた功績を評価され、廣陽侯に封じられた。元始2年([[2年]])4月、病により罷免された王崇の後任として、[[司空|大司空]]に就任した<ref>以上の甄豐の職歴は『漢書』百官公卿表下による。なお、『[[漢書]]』外戚伝下によると、[[平帝 (漢)|平帝]]が即位した[[元寿]]2年([[紀元前1年]])に、甄豊はすでに大司空となっているが、これは百官公卿表の記載と矛盾する。本記事は、百官公卿表に拠った。</ref>。
 
以上のように、元始年間に、甄豊と甄邯は王莽の側近として台頭し、朝廷で威勢を振るい始めた。元始3年([[3年]])、[[王宇]][[呂寛]]、衛氏一族が誅滅される事件が起きると、甄豊は王莽の意を汲み、[[何武]]、[[鮑宣]]、彭偉などの名士・豪傑数百人を連座により死に追いやっている。
 
[[居摂]]1年([[6年]])3月、甄豊は太阿、右拂をも兼任し、[[孺子嬰]]を補佐する。居摂2年([[7年]])9月の東郡[[太守]][[テキ義|翟義]]の反乱の際には、王舜とともに夜間に宮中を巡回し、王莽を護衛した。