「始皇七刻石」の版間の差分

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=== 泰山刻石 ===
[[紀元前219年]]の巡幸の際、「霊山」として中国歴代王朝の皇帝に崇敬された[[泰山]]に建てたもの。現存する刻石の一つであるが、極めて保存状態が悪く、記録によれば[[北宋]]代の時点で既に[[始皇帝]]のことについて書かれた部分は剥げ落ち、[[胡亥|二世皇帝]]の部分のみが解読可能と残って状態であったという。さらにこの当時はれでも判読可能な文字が146字あり、判読不可のも含めれば計222文字が確認出来たが、その後摩滅は続きが著しく進み、[[明]]末には29字まで減少。さらに[[清]]代に入った乾隆5(1740)年、火災に遭って行方不明となり、後に発見された時にはわずかに10字を残すのみとなってしまった。現在、原石は泰山の麓にある泰安博物館において厳重に保存されている。拓本としては十字本、二十九字本、五十三字本、百六十五字本の4つが伝わっている。
 
=== 瑯琊台刻石 ===
[[紀元前219年]]の巡幸の際、瑯琊(ろうや、現在の[[山東省]])に建てたもの。この時始皇帝は「瑯琊台(ろうやたい)」と呼ばれる人工の丘を作り、その下に建てたという。
 
現存する刻石の一つであるが、これも保存状態が悪く[[北宋]]代の時点で[[胡亥|二世皇帝]]の部分のみが残っている状態であったという。[[清]]代に県令が原石を保護、廟を建てて保存していたが、光緒26(1900)年に猛烈な雷雨のために海中に没し行方不明となった。のち[[中華民国]]の10-11(1921-22)年頃になって再び発見、現在は中国歴史博物館に保存されている。行の上下に線を切って文字が刻まれており、13行86字が残っているが、摩滅で石にひびが入って文字が涙を流したようになっている。拓本は原石から採ったものと、模刻したものから採ったものがある。
 
=== 之罘刻石 ===
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* 尾上八郎・神田喜一郎・田中親美・吉澤義則編『書道全集』第1巻、平凡社
* 藤原楚水著『図解書道史』第1巻、省心書房
* 尾上八郎編『定本書道全集』第1巻、河出書房
 
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