「中江丑吉」の版間の差分

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[[1925年]]から「中国古代政治思想史第一巻」、「[[衛鞅]]の商邑と[[張儀]]の商於とに就いて」「中国の封建制度に就いて」「商書般庚篇に就いて」「公羊傳及び公羊學に就いて」「書廿九篇に関する私見に就いて」の論文が次々に発表された。『順天時報』紙に時評を書いたこともあるが、主に[[西園寺公望]]や[[満鉄]]の庇護を受ける他はほとんど門外に出ず、在留法人の間では奇人と噂されていた。[[1935年]]初めに突然北京を引き上げ、1ヶ月に満たない[[東京]]での生活の後に北京に舞い戻ることがあったが、「書廿九編」の続編である「洛誥系統諸篇を論ず」を未完成のままにして、以後は中国学に関する論文を発表することはなかった。
 
潜行中の[[片山潜]]や[[佐野学]]をかくまい、中国革命の協力者・[[鈴江言一]]の学習を助けたりはするが、自らは[[イマヌエル・カント|カント]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]、[[カール・マルクス]]や[[マックス・ウェーバー]]を原書で繰り返し読み直すという厳しい日課を行い、専門分野では京都大学の[[小島祐馬]]に認められていた。[[1937年]]の[[蘆溝橋事件]]を知り、この事変を「世界戦争の序曲」と断定し知り合いの[[今田新太郎]]中佐に対中戦争の失敗すべきことを説き、拡大を防止するよう勧告したという。太平洋戦争中は[[近衛文麿]]首相や[[岡村寧次]]総司令官の招きにも応ぜず、日独の枢軸側の必敗を確信し、周囲の人々にも憚りなく公言したために北京の憲兵隊には「聖戦を白眼視するスネモノ」としてマークされていた。重度の肺結核と診断され、1942年5月に福岡の[[病院]]へ入院し、死去する。
 
== 著作 ==