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== 経歴 ==
師都は、朔方郡の豪族の家に生まれた。隋に仕えて鷹揚府郎将となった。[[大業]]末年、辞任して帰郷し、数十人の人々と結んで隋に反抗し、朔方郡丞の唐世宗を殺し、郡に拠って大丞相を称し、北の[[突厥]]と同盟した。隋の張世隆の攻撃を撃退し、彫陰・弘化・[[延安]]を攻略した。梁国を建てて、[[皇帝]]を僭称し、[[永隆 (梁師都)|永隆]]と元号を立てた。突厥の[[始畢可汗]]により大度毘伽可汗・解事天子の号を受け、突厥の兵を率いて[[オルドス地方|オルドス]]の地に盤踞し、塩川郡を抜いた。
 
[[619年]]、霊州を攻撃した。突厥の千騎とともに野猪嶺に野営していたところ、唐の延州総管段徳操が進軍してきた。段徳操の兵は寡兵で戦おうとしなかったので、師都の兵の士気はゆるんできた。段徳操は副総管の梁礼を向かわせて師都と戦わせ、戦いが長期化してきたころ、段徳操は自ら軽騎を率い、多くの旗幟をひるがえらせて攻撃すると、師都の軍は総崩れとなり、多くの死者を出した。しばらくして師都は五千の兵で侵入したが、段徳操はまた師都の軍を撃破した。