「荻野山中藩」の版間の差分

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松永村ではなく松長村です。
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== 藩史 ==
荻野山中藩は[[小田原藩]][[大久保氏]]の支藩であり、[[大久保教寛]]が相模愛甲郡・足柄上郡・高座郡のほかに[[駿河国]][[駿東郡]]・富士郡、[[伊豆国]]君沢郡・田方郡などに1万3000石を領した。このときは松長に陣屋があったため、松長藩と呼ばれた。大久保教寛は[[大久保忠朝]]の次男で、[[元禄]]11年([[1698年]])に6000石を与えられ、[[宝永]]3年([[1706年]])10月に西の丸[[若年寄]]に栄進したことから、5000石を加増されて1万1000石の[[大名]]として諸侯に列したことから、荻野山中藩が立藩した。当初は駿河国松村(現在の[[沼津市]])に陣屋をおいた。[[享保]]3年([[1718年]])3月、さらに相模国内において5000石を加増されて1万6000石を領する大名となったが、第2代藩主・[[大久保教瑞]]の代である[[享保]]15年([[1730年]])11月、弟の[[大久保教平]]に3000石を分与したため、1万3000石となった。
 
正式に陣屋が山中に移ったのは、[[天明]]3年([[1783年]])の第5代藩主・[[大久保教翅]]のときである。このため、これ以後を'''荻野山中藩'''という。この頃から山中藩では藩財政の窮乏化が進んでおり、第6代藩主・[[大久保教孝]]は「養蚕要略」を公布して養蚕業の奨励・発展に努めたが、効果は望めなかった。[[幕末]]期の[[慶応]]3年([[1867年]])12月、[[江戸]][[薩摩藩]]邸に集まった[[鯉渕四郎]]ら倒幕派浪士隊が藩主が甲府城の勤番のために留守であった山中陣屋を襲撃し、陣屋は焼失した。焼失にもかかわらず、伝承ではあるが市内王子の福伝寺に遺構として陣屋裏門と伝わる門がある。跡地には稲荷と石灯籠があるにすぎない。