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'''山内 盛豊'''(やまうち もりとよ、永正7年(1510年) - 弘治3年(1557年)(永禄2年(1559年)?))は[[戦国時代]]の[[武将]]。岩倉[[織田氏]]の家老。[[山内久豊]]の子。母は二宮俊宗の娘。[[山内十郎]]、[[山内一豊]]、[[山内康豊]]の父。妻は法秀尼(梶原氏の娘?)。守豊とも。猪之助。但馬守。尾張[[黒田城 (尾張国)|黒田城]]主。
 
父の山内久豊は尾張[[羽栗郡]]黒田の郷侍で、尾張守護代の岩倉織田氏に仕えた。[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])、黒田城が夜討され、子の十郎とともに戦死したという資料があり、一方で、[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]に逃げ、[[永禄]]2年([[1559年]])に、[[織田信長]]からの攻撃で岩倉城が落城し([[浮野の戦い]])、そのとき、戦死もしくは自害したとも言われる。戒名は法性院殿逸溪光秀大居士。墓所は[[愛知県]][[一宮市]]木曽川町黒田の[[法蓮寺]]
 
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