「マルティン・ルター (外交官)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Louperibot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 除去: de:Martin Luther (Unterstaatssekretär)
編集の要約なし
1行目:
{{otheruses2|ナチスの外交官|ドイツの神学者|マルティン・ルター}}
 
'''マルティン・フランツ・ユリアス・ルター''' ([[1895年]][[12月16日]] - [[1945年]][[5月13日]])は、[[ドイツ]]の[[外交官]]。家具商人から[[ナチ党|国家社会主義労働者党]]の初期からのメンバーであった。彼はると共に外務大臣[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]の個人的なアドバイザーとして勤め、最初は「リッペントロップの事務」(Dienststelle Ribbentrop)として、リッペントロップが、後に[[コンスタンティン・フォン・ノイラートユダヤ人問題の最終的解決]]の後に就任を決定した時には、「外務省」(Auswärtiges Amt)と呼ばれていた。彼は、悪名高い[[ヴァンゼー会議]]に参加したことで知られている。その会議では、[[ユダヤ人問題の最終的解決外務省]]を決定代表して参加した。
 
==生涯==
ルターは、[[家具]]の撤去と[[インテリアデザイナー|室内装飾]]の会社を経営していた。リッベントロップが[[1936年]]に[[大使]]として[[ロンドン]]に異動しへ派遣された際にルターは[[ベルリン]]から家具調度の運搬と「リッントロップ事務所」(Dienststelle Ribbentrop)家具内装動かす手がけめに雇われた。の後にとからルターはリッベントロップの縁が出来る。その妻によって雇われ、リッロップがロンドンに新たに作ったドイツ[[大使]]となると、[[大使館]]の内部の行なった。ルターは陰謀を計画担当る傍らリッペンドロップの一連の外交工作にアドバイザーとして関わることに関し優れた才能を持ていた。この才能やがて[[1938年]]より、リッロップはルが[[コンスンティン・フォン・ノイラを自分ト]]後任として[[外務政策組織におけ大臣]]とな地位につけた。と、ルターはその地位を受けも外務省れて、リッベントロップりし外交政策お抱えの人物の一人となった立案に公式的に関与する
 
[[1940年]]5月、彼は[[親衛隊_(ナチス)|SS]]と外務省の連絡役の地位に任命された。そして、外務省から[[ヴァンゼー会議]]の代表に選ばれた。このヴァンゼー会議は[[親衛隊上級大将|SS上級大将]][[ラインハルト・ハイドリッヒ]]により招集されたもので、「[[ユダヤ人問題の最終的解決]]」の詳細を決定するために開かれた。この会議でルターは占領した[[ヨーロッパ]]中から大規模な「移住」が必要であることに関して懸念を表明した。この発言は、彼自身何が計画されているか完全に理解していないことを示している様でもあった。
 
[[1942年]]1月の後、ルターの主な仕事以降は、ユダヤ人住民を死の[[絶滅収容所]]へ送り込むためにドイツの衛星国や同盟国に外交工作説得及び圧力をかける行うことであが、ルターにとて主。この仕事を彼は冷静に果たしている任務となった。おかしなことにその一方でこの期間中ルターはリッベントロップ夫人のために室内装飾の仕事を続けており、家だけでなく婦更には夫人の服のデザインまで行なっていたが、夫人がルターはリッベントロップ夫人が自分家の使用人であるかのようにとしてめ、夫人のために働くことに対して憤慨し不満を爆発させれが原因でルターから、リッロップとの間の関係が破綻した冷却化することになる
 
戦争後期には[[フランツ・ラーデマッヘル]]の支援により、彼はリッベントロップに取って代わり外務大臣になろうとしたするものの、逆に自ら、その試みは[[ザクセンハウゼン強制収容所|ザクセンハウゼン]][[強制収容所]]に送られることになった。彼は[[1945年]]5月に[[ソ連軍]]によって解放されたが、すぐ死亡することになった。
 
彼の死の一年後に、ヴァンセー会議のルターのコピーは、アメリカの調査によりドイツ外務省の書庫で発見された。映画「[[:en:Conspiracy (film)|Conspiracy(陰謀)]]」の通り、これは戦争を乗り切った会議の唯一の記録である。