「王鳳 (更始)」の版間の差分

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== 事跡 ==
=== 緑林軍の創始者 ===
{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller"
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! <small>姓名
| <small>王鳳
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! <small>読み・ピンイン
| <small>おうほう〔Wáng Fèng〕
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! <small>時代
| <small>[[新]]代
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! <small>生没年
| <small>〔不詳〕
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! <small>字・別号
| <small>〔不詳〕
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! <small>出身地
| <small>[[荊州]]江夏郡新市県
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! <small>職官
| <small>〔緑林軍部将〕→〔新市軍部将〕
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! <small>爵位・号等
| <small>成国上公〔更始〕→宜城王〔更始〕
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! <small>陣営・所属等
| <small>[[王匡 (更始)|王匡]]→[[更始帝]]
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! <small>家族・一族
| <small>〔不詳〕
|}
[[王莽]]の統治の末年に、王鳳は同郷の王匡と共に、地元の争議の調停役を務めていたが、衆に推されて2人で数百人の民衆の頭領となった。そこへ、[[馬武]]、[[王常 (後漢)|王常]]、[[成丹]]も加わり、離郷聚を攻撃した後、緑林山(江夏郡当陽県)に立て篭もった。その軍勢は、数ヶ月の間に7,8千人に膨らんだという。[[地皇]]2年([[21年]])、荊州牧が2万の軍勢を率いて緑林軍を討伐しにきたが、王匡、王鳳は雲杜(江夏郡)でこれを迎撃し、殲滅した。これをきっかけに、軍は5万人を超えたと称し、官軍も手を出せなくなった。