「南淵年名」の版間の差分

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卒去は薨去の誤りだが、いずれにしても敬意表現なので改めました。
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[[天長]]9年([[832年]])[[文章生]]となる。[[承和 (日本)|承和]]8年([[841年]])[[従五位下]]。以降、[[筑前国|筑前]]、[[尾張国|尾張]]、[[信濃国|信濃]]、[[伊予国|伊予]]等の[[国司]]や[[式部大輔]]、[[民部卿]]、[[右衛門督]]などを歴任し、貞観14年([[872年]])[[従三位]][[中納言]]に進む。貞観18年([[876年]])大納言、貞観19年(877年)正三位。
 
[[参議]]・[[左大弁]]・[[勘解由長官]]の任にあった貞観8年([[866年]])に[[応天門の変]]が起こり、[[藤原良縄]]とともに[[伴善男]]の尋問に当たった。その学識の高さをもって[[清和天皇]]の信任厚く、『[[貞観交替式]]』や『[[日本文徳天皇実録]]』の編纂作業に携わった。卒去の年となった貞観19年(877年)には、小野山荘に[[大江音人]]、[[藤原冬緒]]、[[菅原是善]]といった知識人を招き、本邦初の[[尚歯会]]を開催したことでも知られる。
 
{{DEFAULTSORT:みなふち の としな}}