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[[1868年]](慶応4年)8月、妻子及び助手2人を伴って来日した。当時26歳。この時から[[1876年]](明治9年)までの8年間の日本滞在中に、[[和歌山県]][[串本町]]の[[樫野崎灯台]]を皮切りに26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げた。また灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだ。
灯台以外でも、ブラントンは多くの功績を草創期の近代日本にもたらしている。<!--日本初の鉄橋は長崎のくろがね橋。-->日本初の[[電信]]架設([[1869年]]、東京・[[築地]] - [[横浜市|横浜]]間)のほか、[[江戸幕府|幕府]]が設計した[[外国人居留地|横浜居留地]]の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し街路を整備した。また、日本最初の[[鉄道]]建設についての意見書を提出し、[[ローウェンホルスト・ムルデル]]らとともに[[大阪港]]や[[新潟港]]の築港計画に関しても意見書を出している。
ブラントンは1876年3月、明治政府から任を解かれ帰国した。英国で彼は、論文「日本の灯台(Japan Lights)」を英国土木学会に発表、賞賛を受けた。その後は建築家として、建物の設計及び建築に携わった。晩年、仕事の合間に書きためた原稿「ある国家の目覚め
== ブラントンが設計した日本の主な灯台 ==
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