「大谷光照」の版間の差分

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その後、[[旧制第一高等学校]]を経て1935年(昭和10年)[[東京帝国大学]]文学部東洋史学科卒業。1937年(昭和12年)4月、[[徳大寺実厚]]長女の嬉子と結婚。以後50年の間、本願寺派教団の陣頭指揮にあたった。1977年(昭和52年)、門主を引退し前門主となる。
=== 戦前戦中の活動 ===
15歳で継職した青年門主光照は昭和の激動戦時下時代教団門主として過ご指導した。戦争色が濃くなる1941年(昭和16年)には宗制を改定し、従来[[神祇不拝]]を旨としていた宗風を放棄し、「'''王法為本ノ宗風ヲ顕揚ス是レ立教開宗ノ本源ナリ'''」と宣言。国家神道と結びついたいわゆる戦時教学を推し進めていった。
 
特に、親鸞の著作に[[皇室]][[不敬]]の箇所があるとして該当部分を削除するよう命じたり(聖典削除問題)、門信徒に戦争協力を促す消息(声明)を発して戦時体制を後押しした。光照自らも度々軍隊慰問を行い、[[南京事件]]の直後には自ら[[南京]]に入城し犠牲者追弔会を行っている。
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教団も戦争協力の名目で大量の戦時[[国債]]を購入し、戦後の教団財政の危機を招くこととなった。
 
いわゆる戦時教学を確立させ、戦争遂行に積極関与していった光照であるが、時代の流れとして止むを得なかったとする評価がある一方、光照をはじめとした指導的立場にあった僧侶の[[戦争責任]]を問う声も根強い。これらに関して光照自身は戦後ながく沈黙を貫き、往時を生前に回顧する機会はほとんどなかった。
 
=== 戦後の主な活動 ===