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'''宮地佑紀生'''(みやち ゆきお、[[1949年]][[1月9日]] - )は、<!--[[名古屋弁]]バリバリの-->[[名古屋]]を中心に活躍する[[タレント]]。 [[サンデーフォーク]]所属。
 
== 人物 ==
[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[大須]]生まれ([[矢野きよ実]]、[[一路真輝]]と同じ)。実家は日本でも珍しい[[緞帳]]屋だった。[[名古屋市立大須小学校|大須小学校]][[名古屋市立前津中学校|前津中学校]]と地元で育った生粋の名古屋っ子である。高校は[[愛知中学校・高等学校|愛知高校]]
 
[[愛知学院大学]]卒業後、[[専門学校東京デザイナー学院|東京デザイナー学院]]に進学。23歳で[[アクセサリー]]ショップ「参百六拾六日の店」を始め、25歳のときに、当時行われていた[[名鉄百貨店|名鉄セブン]]社員による生CMに出演したのがきっかけで、[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]の[[プロデューサー]]・[[塩瀬修充]]に誘いを受け、[[ラジオパーソナリティ]]を始めた。[[1976年]]にはバンド「無有(むう)」を結成し、「名古屋っ子」などの歌を歌ったが全く売れなかった。一時期、'''宮地由紀男'''という名前の表記だったことがあるが、長女誕生を機に改名している。
 
「[[ミッドナイト東海]]」月曜日、「どんどん土曜大放送」などを担当する傍らで、「参百六拾六日の店」の経営も続けており、多いときには[[豊橋市|豊橋]]や[[軽井沢]]など全国で13店舗を展開していたが、次第に借金がかさんでいき、次々に閉鎖していった(なお借金が一億円になったとき、毎日自殺することを考えていたらしく、飲みに行った際などに、そのお店が入居しているビルの屋上までのぼった事もあるらしいというくらい、追い詰められていた時期もあったようだ)。「[[宮地佑紀生の聞いてみや~ち]]」を始める際に、最後に残った4店舗を他人に譲り、以降の活動をタレント一本に絞った。ちなみに「ミッドナイト東海」への宮地の起用にあたっては社内会議で反対の声もあったようである(塩瀬の尽力により出演が決定した)。