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'''鷲尾 克己'''(わしお  かつみ、[[1923年]][[4月1日~1945]] - [[1945]][[5月11日]])は、[[兵庫県]][[明石市]][[舟上新明町]]1丁目155番出身の[[大日本帝国陸軍]][[特別攻撃隊]]第55振武隊隊員、[[陸軍]][[大尉]]
 
== 生涯 ==
鷲尾克己は幼い頃から勉学、運動共に優れた少年であった。[[昭和]]11年3([[1936年]])3月、兵庫県[[印南郡]][[平荘村]]巌に本籍があった克己は、[[神戸市立雲中小学校|雲中小学校]]を卒業。受持の先生が克己の才能を惜しんで、裕福でない家庭環境にあったが上級学校へ進ませるよう両親に頼んでいる。中学受験の費用なら出そうという人も現れて、[[兵庫県立神戸高等学校#旧制第一神戸中学校(神戸一中)|神戸一中]]に合格。そこを優秀な成績で卒業する。中学時代の学費は、克己自身が家庭教師をして稼いでいる。[[家庭教師]]は菅沢家の息子でほぼ同年代の少年が相手。克己は性格温厚、確り者で優秀だった事から、菅沢家の人々に愛されるようになり、中学から大学までの学費を出そうと言われる。この頃、神戸一中の鷲尾といえば、阪神の学生剣道界では有名で、校内では実行力に長けた委員長で有名だった。
 
昭和16年(1941([[1941]])3月、神戸一中も優秀な成績で卒業すると、京都[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]を受験したが、不合格。一年間の憂うつな浪人生活を過ごした後、昭和17年4月、第一高等学校文科甲類を受けて、合格。直ぐに撃剣部に入り、南寮12番室にて寮生活を始めている。克己の父は病弱な人で、その頃、航空機会社に務める為に一家を連れて[[神戸市]]から[[明石市]]に移り、母は克己の幼い妹弟たち3人と、体の弱い父の世話に追われていた。
 
昭和18年(([[1943年)]])[[日本軍]][[ミッドウェー]]より負け戦を繰り返し、戦局は悪化の一歩を辿っていた。[[玉砕]]続きで兵士不足となっていた日本軍の為に[[東條英機]][[首相]]は「学生猶予の解除」によって解決する事にし、同11月にまず文科学生から召集する事にした。[[学徒出陣]]である。同[[12月1日]]、丁度二十歳になっていた克己に、[[岡山県|岡山]]の工兵連隊に入隊せよ、と[[召集令状]]なる赤紙が来た。入隊する前日、病床にあった父に別れを告げた。父はそんな克己に負けじと起き上がり、無理をして職場に出向いたが、これが良くなかった。昭和19年([[1944年]])[[1月27日]][[二等兵]]になった克己が転科試験を受けに行く途中、明石を通過する汽車に母が数駅同乗し、父の危篤を知らせた。その翌朝、父は死んだ。克己はその死を同2月9日、陸軍特別操縦見習士官に合格した日に知るのだった。家族と祝う筈の見習仕官合格の日が、克己にとってはとても悲しい日になっていた。
 
昭和20年3([[1945年]])3月、[[佐賀県]][[目達原基地]]で訓練中、特別[[見習士官]]全員が一室に集められると、「今日から全員が特攻隊である。ただし、技術優秀な者から先発する」と突然言われ、特攻隊要員を命ぜられたのである。こうして特攻訓練を受ける為、[[三重県]][[明野基地]]へ移動。明野へ移動する途中、克己は明石市にいる母に会い、それとなく自分が死ぬ事を告げようとしたが、母は、「どうして、お前が死ぬものかね。死ぬ筈がないよ...」と自分にでも言い聞かせるかのように、苦労でやつれた顔を無理に微笑んで見せるのを見て、克己は胸がつまる思いだった。結局、自分が特攻で死ぬことを言えずに母に最後の別れを告げた。
 
理想と自尊に満ちた一高生活から一変して、人間を人間と扱わない軍隊生活…そして、学費を出して下さった菅沢家への恩義。 克己が高校に入学した年、菅沢家では克己の将来を考えて身内の娘さんをお嫁さんに考えていた。こうする事で正式に菅沢家の養子になって貰おうと思ったのだ。しかし、克己はいつの頃からか幼馴染みの少女に淡い恋心を寄せるようになっていた。克己自身それが恋だと気付くのは軍隊に入る頃だろうか...、もう会えなくなる、と思うと胸が痛むのだった。その少女は克己の従姉妹にあたる人で、久美子と言った。克己は死ぬまで彼女の写真を胸ポケットに入れていた。
 
「自分の境遇は複雑なんです。いろんな恩義というものを考えると、気持の動きがとれなくなっていたんです。…だから、自分が特攻隊となったことは、よい解決だと思っています」と克己は出撃前に[[知覧町|知覧]]で知り合った高木軍報道員にその心情を打ち明けていた。昭和20年[[5月11日]]早朝0630、鷲尾克己少尉は大日本帝国陸軍第55振武隊隊員として[[沖縄県|沖縄]]へ出撃した。
 
出撃直前、第55振武隊と第56振武隊の学徒兵たちが輪になって「[[男なら]]」を大声で歌った。知覧から出撃直前に歌を歌った唯一の特攻隊員たちであったと高木軍報道員は書いている。その輪の中には、[[上原良司]][[少尉]](弟56振武隊、慶応経済)、[[京谷英治]]少尉(弟56振武隊、早稲田)、[[三根耕造]]少尉(弟56振武隊、東京帝大)、[[朝倉豊]]少尉(弟56振武隊、日大歯科)、[[森清司]](弟55振武隊、京都師範)などがいて、三根少尉以外は皆、5月11日に戦死した。尚、三根少尉は愛機の故障の為、帰還し上官から酷い仕打ちを受けている。同16日再出撃の練習中、墜落事故を起こし、翌17日に知覧の軍病院で仲間の後を追うようにして死んだ。特攻訓練中の殉死は特攻戦没者の扱いにはならない。従って、死後の二階級昇進も何もないが、三根少尉の死も特攻隊員として立派な死であったと言えよう。
 
{{Cquote|個と全との矛盾は我が心情中に解決し得たとは言ひ得ず。<br />靖国神社の奥殿にてさぞ恥しからむ。<br />我は永生を信ず。<br />今後沖縄の戦局は我等が永生。<br />我が友等の我が思ひ出は我等が永生。<br />大きくは今後日本の歴史の流れの中に我等は生きむ。
【鷲尾克己の手記より】
個と全との矛盾は我が心情中に解決し得たとは言ひ得ず。
靖国神社の奥殿にてさぞ恥しからむ。
我は永生を信ず。
今後沖縄の戦局は我等が永生。
我が友等の我が思ひ出は我等が永生。
大きくは今後日本の歴史の流れの中に我等は生きむ。
 
我が23年の一挙手一投足すべて何処かに生きてあらむ。|鷲尾克己の手記より}}
 
 
{{DEFAULTSORT:わしお かつみ}}
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[[Category:1923年生]]
[[Category:1945年没]]