「西山宗因」の版間の差分

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15歳頃から肥後国[[八代城|八代]]城代[[加藤正方]]に仕えた。正方の影響で連歌を知り[[京都]]へ遊学した。[[里村昌琢]](しょうたく)に師事して本格的に[[連歌]]を学んだが、[[1632年]]([[寛永]]9年)主家の[[改易]]で[[浪人]]となる。[[1647年]]([[正保]]4年)[[大坂天満宮]]連歌所の宗匠となり、全国に多くの門人を持つようになった。一方では、[[俳諧]]に関する活動も行い、[[延宝]]年間頃に[[談林派]][[俳諧]]の第一人者とされた。[[俳諧連歌]]ははじめ[[関西]]を中心に流行し、次第に全国へ波及し、[[松尾芭蕉]]の蕉風俳諧の基礎を築いたが、宗因は晩年連歌に戻った。
談林派は、言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化をはかり、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色としたが、蕉風の発生とともに衰退した。宗因流。飛体(とびてい) 。阿蘭陀(オランダ) 流ともいわれた。
 
== 主な作品 ==
*さればこそ爰(ここ)に[[談林]]の木あり梅の花
*にて候高野山より出たる芋   
*阿蘭陀の文字か横たふ天つ雁
*これやこの江戸紫の若なすび  
*五月雨や天下一枚うち曇り  
*となん一つ手紙のはしに雪のこと
*ながむとて花にもいたし頸の骨  
 
== 芭蕉の宗因評価 ==
[[芭蕉]]は「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て[[松永貞徳|貞徳]]が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」([[去来抄]])とのべている。
 
==関連項目==