「袴田里見」の版間の差分

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;[[1970年]](昭和45年) : 党副委員長に就任。この間に党を代表してソ連や[[中国]]を訪問。
;[[1977年]](昭和52年) : 宮本顕治の[[スパイ査問事件]]に関連して週刊誌などで党や宮本を批判し、共産党から規律違反(党外からの党攻撃)により除名処分を受ける。まもなく[[新潮社]]から暴露本を出版し、話題を呼んだ。
;[[1988年]](昭和63年):袴田が居住していた共産党所有の家屋の明け渡しをめぐる訴訟([[共産党袴田事件]])で、[[最高裁判所]]が袴田の上告を棄却し、敗訴が確定。
;[[1990年]](平成2年)[[5月10日]] : 死去。
 
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* 没後公開されたソ連の秘密文書により、[[野坂参三]]とともにソ連からの秘密の接触がしばしばあったことが判明した。実は袴田は日本共産党を除名される前にも野坂に関する疑惑を暴露している。日本共産党は「反共毒素一掃キャンペーン」として多数のパンフレットや書籍を発行していた。これは「現役党幹部が叛旗を翻した」ことによるダメージの一掃、と推測されるが、野坂の疑惑を党自体も承知していて、それを隠蔽したいが為ではなかったのか、という意見もある。
* 弟の[[袴田陸奥男]]は、ソ連に亡命した日本共産党員。[[青山学院大学]]教授の[[袴田茂樹]]と[[ロシア]]の政治家[[イリーナ・ムツオヴナ・ハカマダ]]は陸奥男の息子と娘である。すなわち里見からみれば甥と姪になる。
* 共産党除名当時、袴田は党が所有する家屋に居住しており、除名により党が明け渡しを求めて袴田を相手取って民事訴訟を起こした。除名処分という政党の内部審査が司法審査に馴染むかが争点となったが、最終的に裁判所は党側の主張を認めた。詳細は[[共産党袴田事件]]を参照。
 
 
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