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'''パラドーン・スリチャパン'''('''Paradorn Srichaphan''', [[タイ語]]:{{lang|th|''ภราดร ศรีชาพันธุ์''}}, [[1979年]][[6月14日]] - )は、[[タイ王国|タイ]]・[[バンコク]]出身の男子プロ[[テニス]]選手。現在長年にわたり、[[アジア]]の男子プロテニス界を代表してきた選手のナンバー1として活躍していである。シングルス自己最高ランキングは9位(2003年5月)。これまでに[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス5勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長185cm、体重81kg。
 
父親は銀行員、母親は学校教師という恵まれた家庭に育ち、6歳から[[テニス]]を始める。父親は息子のパラドーンにテニスを教えるために、銀行員を退職し、現在も息子のコーチを務めている。[[1996年]]に世界ジュニアランキング10位に入り、[[1997年]]にプロ転向。[[1998年]]から男子国別対抗戦・[[デビスカップ]]のタイ代表選手になる。[[2002年]]の[[2002年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]2回戦で、第3シードの[[アンドレ・アガシ]]を 6-4, 7-6, 6-2 で破る金星を挙げ、世界的に有名になった。この大会では、次の3回戦で[[1996年ウィンブルドン選手権|1996年]]の優勝者[[リカルド・クライチェク]]に敗退している。その勢いに乗って、同年8月の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニューヨーク市|ニューヨーク]]「ロングアイランド」の大会でツアー初優勝を挙げた。2ヶ月後、[[スウェーデン]]・[[ストックホルム]]の室内コートの大会で2勝目を挙げる。この年は準優勝も3度あり、一気にアジア男子テニス選手のトップに躍進した。
 
[[2002年]]にタイ国政府より兵役を免除されている。[[2003年]]には『タイム』誌のアジア版で「アジアの英雄29人」に選ばれたことがある。[[2004年]]の[[アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]]開会式では、タイ王国の代表選手として旗手を務めた。<!--最近は右手首の故障に悩み、[[20032007年]]ごろ3月の「[[タタ・ヤディアンウェルズ・マスターズ]]と交際関係」を最後試合出場から遠ざかたが、親などの薦めで交際をやめたている-->
 
2007スリチャパンは[[20034月]]ごろ2005年度歌手の[[ミスタタユニバースヤン]]と交際関係にったが、親などの薦めで交際をやめた。その後、2007年11月29日に[[ナタリー・グレボヴァ]](2005年度[[ミス・ユニバース]]優勝者)した
== 関連項目 ==
* [[テニス]]
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[[Category:タイのテニス選手|すりちやはん はらとおん]]
[[Category:1979年生|すりちやはん はらとおん]]
 
[[de:Paradorn Srichaphan]]
[[en:Paradorn Srichaphan]]