「阪東妻三郎プロダクション」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Kmrt (会話 | 投稿記録)
m typo
編集の要約なし
24行目:
=== 東京ベイエリアの撮影所 ===
[[1931年]](昭和6年)1月、阪東は「大日本自由映画プロダクション」を設立、[[京成電鉄]]が提供した[[千葉県]][[千葉郡]][[津田沼町]]谷津海岸(現在の[[習志野市]]谷津)の塩田地帯の約5万平方メートルの土地(のちの[[谷津遊園]])に「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」を建設した。第1作は[[東隆史]]監督の『洛陽餓ゆ』で、[[パラマウント映画|パラマウント]]社の配給により同年[[7月15日]]に公開されたが、第2作、おなじく東監督の『風雲長門城』からは、同年に[[帝国キネマ]]から改組された[[新興キネマ]]の配給となった。松竹資本のもと、帝国キネマの専務取締役となり、当時新興キネマの常務取締役となった立花の斡旋による<ref name="阪東" />。
 
この立花は配給権をエサに商売をするのが癖であり、東京でも詐欺同然に金を集めていた。「アラカン一代」にあるように立花のバックには黒竜会がついておりヤクザも歯が立たない大物である。この際に義憤を感じて立花単身乗り込んで行ったのが後の住吉会最高顧問の福原陸三である。愚連隊であった福原は立花に話をして出資金の半額を取り戻してきた。(出典:山平重樹「遊侠凧」)<!--出典を明記した内容を削除するのはアラシとなりますので、すぐに管理者掲示板に報告します。-->
 
[[1932年]](昭和7年)の正月映画はふたたび「岡山俊太郎」名義で阪東が監督した『[[月形半平太]]』であったが、同年7月、同撮影所が火事になり、[[沖博文]]監督による阪東主演作『英五郎二人』のネガフィルムが焼失するという事件が起きた<ref name="阪東" />。火事のせいか、当時の「神変麝香猫」全3作シリーズ、9月公開の3作目は『神変麝香猫 火焔解決篇』となった。