「橋本経子」の版間の差分

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江戸に向う和宮の未曾有の大行列は[[中山道]]を通り江戸城へ向う。[[文久]]2年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]([[1862年]][[3月12日]])に[[江戸城]][[大奥]]に到着した観行院と和宮は14代将軍・家茂の義母・[[天璋院]]、家茂の実母・[[実成院]]、13代将軍・家定の生母・[[本寿院]]と対面する。そこで和宮は「いち早く京風から江戸風の生活に慣れるように」と天璋院、実成院、本寿院らに言われ、御所風の生活を保障すると言われていた和宮と観行院、女官の[[土御門藤子]]、庭田嗣子らは動揺する。京で幕府が朝廷に約束したことは、全く大奥に伝達されていなかったのである<ref>参考文献『徳川将軍家の結婚』[[中央公論社]](中公新書)[[山本博文]]著 ISBN 4166604805</ref>。
 
観行院らは天璋院の意向を無視し、和宮の御所風の生活を重視して江戸風の生活に慣れようとはしなかった。そのため大奥女中や天璋院とのいざこざも少なくはなかった。<u>京風と江戸風で対立する大奥女中を見かねた[[御年寄]]・[[瀧山]]は観行院ら京都側の女中に「天璋院様の意向は幕府の意向であるため従うように」と京風から江戸風に生活を改めるように指示し</u>{{要出典}}、天璋院や瀧山が率いる大奥女中との対立が深まった。<!--本来なら、御台所である和宮が権力を持つはずだが、実際は天璋院や実成院、本寿院、瀧山といった大奥の老女が権力を握っていた。→大奥では御台所が実権を握ったことの方が少ないので、この文章は矛盾 -->観行院は和宮以上に大奥での生活で天璋院を中心とする江戸方の女中と対立した<ref>例えば、観行院は節句の日にひな壇のない雛飾りを用いた。武家ではひな壇のある雛人形を用いていた。</ref>。一方で、和宮の生母にして先帝の典侍である観行院は、大奥において上臈上座の位を授けられる。
 
下向後も異郷の地で和宮をかばい続けた観行院であったが、元治元年(1864年)秋ごろより体調を崩す。江戸に常駐していた典薬寮医師や幕府の奥医師たちが発行した容態書<ref>[[国立公文書館]]蔵・江戸城多聞櫓文書第39482</ref>には、「御気血御不順」「御心痛」「御小水不利」「水気」「御手足麻痺」など、[[脚気]]と思われる症状が記されている。年末に一旦持ち直すが、年が明けて慶応元年に入ると再び病状が悪化。夏の暑さに体力を奪われて衰弱し、秋も深まった8月14日(旧暦)、[[江戸城]]にて死去。享年40。遺体は将軍側室と同様の待遇を受け、[[増上寺]]の徳川家墓所に埋葬された。観行院は和宮を育てた功績により、朝廷から[[従五位]]の追贈を受けた。
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