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'''イクノ・アムラク'''(Yekuno(Yekuno Amlak)Amlak)は、[[エチオピア]]、[[ソロモン朝]]の創始者で、一時中断するものの[[1974年]]まで続く[[エチオピア帝国]]の初代皇帝([[1270年]] - [[1285年|85年]])である。彼の先祖をたどると、[[アクスム王国]]の最後の王デイルナードにつながるとされている。

イクノ・アムラクの事跡については、ほとんどが[[口承文学|口承伝承]]で伝わっている。共通しているのは、イクノ・アムラクの母親は、サガラット地方、現在のアムハラ地方のDessie Zuria woredaに当たる場所を支配した[[アムハラ人]]の首長に仕える女奴隷であったという。イクノ・アムラクはエチオピア高地でもやや東よりに位置するハイク(Hayq)湖、アンバ・セルの近くにあるIstifanos[[修道院]]で教育を受けた。Istifanos修道院では、聖テクレ・ハイマノート(英;Takla Haymanot)がイクノ・アムラクを教育したという。また、聖テクレ・ハイマノートは、イクノ・アムラクが[[ザグウェ朝]]を倒すのに協力したとされる。しかし、これについては、イギリスの歴史家G.W.B.ハンティングフォードは、聖職者たちが政治的に深い役割を果たしたとしたら、ソロモン朝と関係の深かった、Istifanos修道院長のイエズース=モアによって美化された話であると批判する。
 
伝統的には、イクノ・アムラクは、ザグウェ王ザ-イルマクヌン(Za-Ilmaknun,「知られていない」、「隠された」の意味)によって獄につながれていたが首尾よく逃走に成功し、自分の本拠であるアムハラ、ショアで支援者たちをあつめて軍隊を組織し、[[1268年]]から反乱を起こした。そして[[1270年]]にザグウェ朝を滅ぼしたとされる。その当時のザグウェ王については、タディセ=タムラト(Taddesse Tamrat)は、のろわれた記録として公式の記録からは削除されているが、ヤット=バラクではないかとする。ただし、最近のウェッロ(Wollo)地方の年代記作者ゲタチュー=メコーネン=ハサン(Getatchew Mekonnen Hasen)によるとナクト・レアブ(Na'akueto La'ab ないしNakuto Le Ab)に違いないとする。
 
イクノ・アムラクがザグウェ朝を倒すだけの力を持つためには、アムハラとショア地方の[[キリスト教]]徒だけでなく、[[イスラム教]]勢力とも手を組んでいたようである。その傍証として、彼を描いた画像の中にイスラム教徒と奴隷に囲まれて玉座についている画像があること、また[[マムルーク朝]]の[[スルタン]]、[[バイバルス]]に送った手紙に、「スルタンのつつましいしもべ」と自称し、自らの机下に多くのイスラム騎兵がいることを述べていることからもうかがえる。
 
イクノ・アムラクは、その治世の間、アベイ川の南方に勢力を持っていたダモト王国と争い続けていた。イクノ・アムラクに関する記録でより確実なものは、彼の帝国と交流関係のあった他国の記録である。E.A.ウォリス・バッジは、イクノ・アムラクは、[[ビザンツ帝国]]の[[ミカエル8世パレオロゴス|ミカエル8世]]と書簡を交わすだけでなく、贈り物として何頭かの[[キリン]]を贈っているという。
 
また、イクノ・アムラクは近隣の[[イスラム教|イスラム]]勢力とも友好関係を保っていた。ただし、[[エチオピア正教会]]よりAbuna(主教)の称号を与えられていることから、深くかかわるのは避けている。また前述のようにマムルーク朝のスルタン、バイバルスにも何度か書簡を送っている。バイバルスは当時エチオピア正教会の最終的な権威者である[[アレキサンドリア]]の[[大主教]]に対して宗主権を持っていた。[[1273年]]にバイバルスによって新しい主教が立てられた。しかし、この書簡はイクノ・アムラクの最初の要求ではなかったようで、書簡が届いていない時点で、[[イエメン]]のスルタンによって[[カイロ (エジプト)|カイロ]]に派遣した使者の旅程が妨げられたことについて抗議しているからである。
 
タムラトによると、イクノ・アムラクの息子は、シリアの[[司祭]]であったがアレキサンドリアの大主教にかまってもらえなかったという。タムラトは、当時アレキサンドリアと[[アンティオキア|アンテオケ]]の大主教は、[[エルサレム]]の[[司教]]の[[叙任権|叙任]]を巡って争っていたという。もともとエルサレムの司教の叙任は、アンテオケの大主教の特権であった。アンテオケの大主教イグナティウス3世ダヴィドは、エチオピアの巡礼者の主教として扱われ、叙任された。このことが叙任をめぐる議論の発端となった。
 
 
巡礼者がエチオピアの主教の地位を得ていたとは思えないが、[[コプト教]]会の司教がイクノ・アムラクに彼の王国へ来ているシリアのコプト教の支持者にたよることを強いるようなことはなかったようである。
 
イクノ・アムラクは、[[ラリベラの岩窟教会群|ラリベラ]]の近くにゲネテ=ミリアム教会(Church of Gennete Maryam)を建設するように命じている。この教会堂の壁画は、エチオピアに残された壁画の中でも最古の年代に属するものである。イクノ・アムラクはイスラム教徒にも支えられていたものの、熱心なキリスト教信者であり、教会堂の建設を奨励し、[[寄進]]した土地は、領土の1/3とも伝えられている。
 
==参考文献==
* タムラト,T./松田凡訳「アフリカの角地域」『ユネスコ アフリカの歴史』第4巻所収,同朋舎出版,1992年 ISBN 4-8104-1096-X
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*Budge,E.A.Wallis 1928 A History of Ethiopia: Nubia and Abyssinia,Oosterhout,the Netherlands: Anthropological Publications
 
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