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{{Infobox 軍人
[[Image:Iimura Jo.jpg|200px|right|thumb|飯村穣]]
|name=飯村穣
|lived=[[1888年]][[5月20日]] - [[1976年]][[2月21日]]
|placeofbirth=[[茨城県]]
|image=[[Image:Iimura Jo.jpg|200px|right|thumb|飯村穣]]
|caption=飯村穣
|allegiance=[[大日本帝国陸軍]]
|serviceyears=1909~1945
|rank=[[陸軍中将]]
|commands=[[東京防衛軍]]司令官<br>[[第2方面軍 (日本軍)|第2方面軍]]司令官
|unit=[[関東軍]]参謀長
|battles=[[日中戦争]]<br>[[太平洋戦争]]
|results=
|awards=
}}
 
'''飯村 穣'''(いいむら じょう、[[明治]]21年([[1888年]])[[5月20日]] - [[昭和]]51年([[1976年]])[[2月21日]])は[[大日本帝国陸軍]]の軍人。最終階級は[[陸軍中将]]。[[茨城県]]出身。
 
総力戦研究所において研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合の[[シミュレーション]]をおこない、日本の敗北という結論を出した。この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ連]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が軍事的に協力する(演習ではソ連[[極東|極東地方]]の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の[[太平洋戦争]]をかなり正確に予測した。この演習の結果は当時の[[第3次近衛内閣]]の閣僚にも報告され[[陸軍大臣]]だった[[東條英機|東条英機]]も聞いていたが、「机上の空論」と評され、無視された。
 
== 軍歴 ==
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== 逸話 ==
東京外国語学校では[[フランス語]]を習得し、トルコに駐在していたときはトルコの陸軍大学でフランス語の講義をしていた。
 
総力戦研究所において研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合の[[シミュレーション]]をおこない、日本の敗北という結論を出した。この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ連]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が軍事的に協力する(演習ではソ連[[極東|極東地方]]の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の[[太平洋戦争]]をかなり正確に予測した。この演習の結果は当時の[[第3次近衛内閣]]の閣僚にも報告され[[陸軍大臣]]だった[[東條英機|東条英機]]も聞いていたが、「机上の空論」と評され、無視された。
 
{{DEFAULTSORT:いいむら しよう}}