「グスタフ・フォン・シュモラー」の版間の差分

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'''グスタフ・フォン・シュモラー'''('''Gustav von Schmoller''', [[1838年]][[6月24日]] - [[1917年]][[6月27日]])は、[[ドイツ]]の[[経済学者]]。ドイツ[[経済学]]の [[歴史学派#経済学分野における新歴史学派|新歴史学派]] の代表として通用する。
 
[[ハイルブロン]]で、[[ヴュルテンベルク]]の官吏の子として生まれた。[[チュービンゲン大学]]では、国家学(Staatswissenschaften, 経済学、[[歴史学]]、[[行政学]]の要素を併せ持つ学問)を学んだ。[[ハレ]]大学教授(1864年-1872年)、[[ストラスブール|シュトラスブルク]]大学教授(1872年-1882年)、[[ベルリン大学]]教授(1882年-1913年)を歴任した。1881年以後1907『シュモラーには貴族となっている報』を編集刊行いわゆる[[講壇社会主義アドルフ・ワグナー]]者(Kathedersozialisten)の代表的論者であり、や[[ルヨ・ブレンターノ]]とともにドイツ[[社会政策学会_(ドイツ)|社会政策学会]]の創設にも尽力し、1890年から死去するまで会長をつとめた。同学いわゆる[[講壇社主義]]者(Kathedersozialisten)の代表的論者あり長くそ晩年にはプロイセンアカデミー長の職員や上院議員となり、1907年は貴族となている
 
シュモラーは、経済学を[[経験科学]]・歴史的学問と見た。永遠に有効である法則を否み、この点について、[[オーストリア学派]]の創始者[[カール・メンガー]]の思想対立しよって経済理論の無視を批判された。こうした論争は、[[方法論争]]として有名となった。また、[[マックス・ウェーバー]]との間では、[[価値判断論争]]を行なった。個別的特殊研究と国家の役割を重視し、新歴史学派の中では右派のA.ワグナーと左派のL.ブレンターノの中間にあって、折衷的学風であった。
 
1900年以降、シュモラーは、 上下2巻の『国民経済学概論(Grundriß der allgemeinen Volkswirtschaftslehre)』を出版し、経済学界の巨匠としてドイツの支配階層や官界に大きな影響力を持っていた。
 
== 著書 ==