「楷書体」の版間の差分

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=== 歴史 ===
楷書は、[[漢]]代の標準的な書体であった[[隷書体]]に代わって、[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]から[[隋]][[唐]]にかけて標準となった書体である。行書体が確立した時代に発生したため、これらの中では最も最後に生まれたとされている。唐時代までは「楷書」とは呼ばれず、「隷書」「真書」「正書」と呼ばれていた。書体の名称として「楷書」という用語が普及した時期は宋時代以降である。
現時点で最古の楷書は、1984年に発掘された[[呉 (三国)|呉]]の[[朱然]](ACE182-249)墓から発見された名刺である。しかし、それ以後も、隷書と楷書の両方の特徴をもつ中間的な書体が並行して行われていた。これを今隷と呼ぶ。[[北涼]]時代の写経に例が多いので[[北涼体]]と呼ぶこともある。また、中国では楷隷、晋楷とも呼ぶ。当時は、楷書の字形が標準化されていず、異なった字形の文字が多かった。この多数の[[異体字]]を六朝別字と呼び、専門の字典として[[碑別字]]がある。
 
書体が洗練されたのは、初唐の[[太宗]]の時代であり、優れた[[能筆家]]が多数輩出した。その多くは、石碑の[[拓本]]として現代に伝えられている。特に有名な人物として、初唐四大書家と呼ばれる[[欧陽詢]]・[[虞世南]]・[[褚遂良]]・[[薛稷]]がいる。中でも[[欧陽詢]]の'''「九成宮醴泉銘」'''(きゅうせいきゅうれいせんめい)は「楷法の極則」を伝えるものとして名高い(画像参照)。