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== 概要 ==
四諦は'''四聖諦'''とも呼ばれる。「諦」は通常「諦(あきら)める」と読み、仕方がないと断念したり、思い切って、その(良くない)状態を受け入れる、というネガティブ否定的な意味あいで使われる。しかし本来の意味は'''あきらか''''''つまびらかにする'''というのが正しい用法であるしたがって、聖諦とはサンスクリット語で「神聖なる真理」という意味であり、パーリ語では「アリヤ・サッチャーニ」(ariya-saccaani)といわれる。釈迦はさとりを得た後、[[ベナレス]]の[[鹿野苑]](ろくやおん)において、初めて[[五比丘]]のために法を説いた([[初転法輪]])。この時、この四諦を説いたと言われ、四諦は仏陀の根本教説であるといえる。
 
釈迦はさとりを得た後、[[ベナレス]]の[[鹿野苑]]において、初めて[[五比丘]]のために法を説いた([[初転法輪]])。この時、この四諦を説いたと言われ、四諦は仏陀の根本教説であるといえる。四諦は釈迦が人間の苦を救うために説かれた教えであり、あたかも医者が、患者の病気の何であるかをよく知り、その病源を正しく把握し、それを治癒させ、さらに病気を再発しないように正しく導くようなものだ(応病与薬)と言われている。
四つの真理とは、
 
==四つの真理==
四諦(=四つの真理とは、
*人が生きるということは苦であるという真理
*その苦の原因は人間の[[執着]]にあるという真理
*この苦を滅した境地が[[悟り]]であるという真理
*その悟りに到達する方法は[[八正道]]であるという真理
であり、これを順に'''苦諦'''・'''集諦'''(じったい)・'''滅諦'''・'''道諦'''と呼ぶ。このうち前2者は流転の因果を示すものであり、後2者は悟りの因果を示すものである。
 
===苦諦===
この四諦は釈迦が人間の苦を救うために説かれた教えであり、あたかも医者が、患者の病気の何であるかをよく知り、その病源を正しく把握し、それを治癒させ、さらに病気を再発しないように正しく導くようなものだ(応病与薬)と言われている。
苦諦:(くたい、duHkha-aaryasatya)とは人生の厳かな真相、現実を示す。「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。このような人間苦を示すために、仏教では[[四苦八苦]]を説く。
 
==苦諦==
苦諦:(くたい、duHkha-aaryasatya)とは人生の厳かな真相、現実を示す。「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。このような人間苦を示すために、仏教では[[四苦八苦]]を説く。
 
四苦とは、[[生]]、[[老化|老]]、[[病気|病]]、[[死]]の四つである。これに、
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*求めても得られない、または得られないものを求めてしまう「求不得苦」(ぐふとっく)
*最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく)
を加えて「'''八苦'''」と言う。非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ている。
 
===集諦===
集諦(じったい、duHkha-samudaya-aaryasatya)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ることを言う。 
集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれる。「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが[[煩悩]]であるというのである。
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十二縁起より、苦とは、十二の原因のシステムという事になる。十二個集まってそれ全体が苦なのである。だから、「無明」も「渇愛」も「愛欲」も、苦の根本原因であり苦集諦である。
 
===滅諦===
滅諦(めったい、nirodha-aaryasatya)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった[[涅槃]]の境地を言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので[[解脱]]の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。又は苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、又は苦の滅を悟ることを滅諦という。
 
具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。
 
===道諦===
道諦(どうたい、maarga-aaryasatya)とは「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが[[八正道]]である。八正道は七科三十七道品といわれる修行のうちの最終に位置づけられている課程である。
 
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大乗の[[大般涅槃経]]の四諦品では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。
 
*;苦聖諦
*:この世の苦を明らかに徹見し、如来常住の真理を会得すること。また常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ること。
*;集聖諦
*:苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、窮まりないと證知すること。また非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ること。
*;滅聖諦
*:苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅する事が悟りの境地であるが、如来の秘密蔵を正しく知り修智すれば、煩悩があってもよく除く事ができる。また、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(仏性)を信ずる一念が苦を滅するということ。
*;道聖諦
*:八正道を通して一体三宝(仏法僧は差別無く一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、三宝の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。
 
 
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