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日本の化学者
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2008年3月31日 (月) 16:30時点における版

櫻井 錠二(さくらい じょうじ、1858年8月18日—1939年1月28日)は日本の化学者。 イギリスのアレクサンダー・ウィリアムソンのもとへと留学し、帰国後は日本で2人目の化学系教授として東京大学に任官された。 帰国後は主に物理化学分野で研究活動を行ったが、むしろ東京化学会(日本化学会の前身)の運営や理化学研究所日本学術振興会の設立など学術振興にかかわる活動が著名である。 応用化学よりも理論化学を重視、また化学教育を重視する考えから、長井長義らと対立があったとされている。

生涯

1858年に加賀藩士の櫻井甚太郎と八百の六男 錠五郎として金沢馬場一番丁(現金沢市東山)に誕生した。 5歳のときに父が病死し経済的な苦境に陥った。 しかし母は今後は学識が必要となると考えて、子供たちに充分な教育を受けさせた。 錠五郎は1870年に藩立の英学校の致遠館に入り、医学者の三宅秀に師事した。 さらに推挙されて七尾語学所に移り、加賀藩に招聘されたパーシヴァル・オズボーンから英語での教育を受けた。 ここでは後に共同して理化学研究所を設立することとなる高峰譲吉も一時期教育を受けていた。

翌年にすでに藩の貢進生として開成学校に入学し上京していた兄たちのもとに母とともに上京した。 その年に13歳の若さで大学南校(2年後に東京開成学校に、6年後に東京大学になる)に合格した。 4年目からの本科では化学を専攻し、お雇い外国人のロバート・アトキンソンに師事した。

5年目の1876年に文部省の国費留学生に選ばれ、杉浦重剛とともにロンドン大学へと留学した。 ロンドン大学では1年目に化学の試験において首席をとり金メダルを受けた。また2年目においても首席をとり奨学金を受けた。 研究においてはアトキンソンの師でもあったアレクサンダー・ウィリアムソンの指導を受け、有機水銀化合物の研究を行い、論文を2報発表した。 この成果により1879年にロンドン化学会の会員に推挙され、終身会員となった。 ここで1880年に英国人にもなじみやすい錠二に改名した。 またファラデー金曜講演会のような場で、科学者以外の一般人が教養として科学を身につける文化について知り、それが彼の教育論に大きな影響を与えた。

ロンドン大学は応用化学よりも理論化学を中心に研究を行っていた。 彼は理論化学の重要性を感じ、帰国後もそれを主張し、主に物理化学分野で研究を行った。 当時ヨーロッパの化学界では原子論についての論争が起きていたが、アトキンソンやウィリアムソンと同様に彼も原子論を支持する立場をとった。 これらの主張が後に設立された東京化学会の中で大きな争いを巻き起こすことになった。 櫻井は1881年に日本に帰国し、アトキンソンの後任として東京大学理学部講師となった。 翌年には教授に昇進した。化学系の教授としては松井直吉に続いて日本で2人目であった。 またこの年に加賀藩士の娘 岡田三と結婚した。

1883年に東京化学会の会長となり、1885年まで務めた。 当時東京化学会においては化学用語の訳語の統一が重大な課題として挙がっており、櫻井も訳語選定委員を務めていた。 特に大きな問題になったのは化学舎密学の対立であった。 江戸時代に舎密の語が作られた当時には理論化学と呼べるような体系はまだ構築されていなかった。 そのため、舎密は応用化学を指す語として受け入れられてきた。 明治時代になっても工業化学分野では根強い支持があった。 1884年に化学を舎密学と改めることについての全会員73名による投票が行われ、賛成35名で否決されている(改定には2/3の賛成が必要とされていた)。 このような状況下で櫻井は現在の物理化学の発展と化学が原子の運動を解析する学問となるであろうとする展望についての会長講演を行った。 しかしこの講演はむしろ工業化学派の反感を呼んだと思われ、当時ドイツに滞在していた長井長義を会長として迎えるクーデター人事が翌年に行われた。 その後、櫻井は化学会の役職からは長く遠ざかることになった。

1886年に東京大学の帝国大学への改組により、東京帝国大学理科大学の教授となった。 1887年に学位令の発布により理学博士号を受けた。 1892年には沸点上昇法による分子量測定の改良法を発表、1896年にはグリシンやアミノスルホン酸の水溶液の電気伝導度測定について報告し、グリシン溶液の伝導度が低いのは環状構造をとるためではないかと論じた(実際にはzwitter ion構造をとるためである)。

1890年に櫻井は中沢岩太との間で理科教育論について論文で互いに批判を行っている。櫻井はイギリスでの体験から、初等教育から実験や理論化学について教えていくことが良いとしていた。 それに対し、中沢は初等教育のうちに理論化学のような理学者向けの教育は不要と論じている。 このような理論化学を軽視する傾向はドイツでの新規プロセスの開発の例を知る大学の研究者の間ではかなり薄れてきていたが、外国からの既存技術導入を優先した産業界では1930年代に外国からの技術導入が困難となるまで存続した。 1896年に櫻井は役員として東京化学会の運営に復帰した。 その一方で、少数派の大学研究者と多数派の産業界の技術者との間で潜在的な対立が深まっていた。 対立の原因となった化学訳語論争は1881年に「化学訳語集」が出版されて一応決着がついていたが、1896年にその再版が提議された際に対立が再び表面化することになった。 最終的には1898年に工業化学系の技術者は工業化学会を設立して東京化学会から分離独立した。 化学訳語集の再版はなされなかったが、1900年に「化学語彙」という名で櫻井と高松豊吉の共著として化学会とは見かけ上独立した形で出版された。

1898年に櫻井は東京学士会院の会員に選ばれた。ここで彼は「国家と理学」という講演を行って、国家として理学を振興することが国力の向上につながる旨を述べている。 この後、彼は科学を振興する国家プロジェクトに力を注いでいった。 1899年にドイツ化学会から櫻井を通じて東京化学会に原子量表作成の国際プロジェクトへの参加要請があった。 1884年に行った会長講演で櫻井が原子論支持者であることは海外にも知られていた。 そこで最大会員数を擁する工業化学会ではなく、東京化学会が海外との連携の中心となった。 1901年にはグラスゴー大学から名誉博士号を授与された。 1903年には東京化学会の会長に再び就任、以後1904年、1909年、1910年、1912年、1915年に会長を務めた。 1904年には東京帝国大学理科大学長に就任した。

1907年には教授在職25周年祝賀会が門下生によって開かれ、祝賀金を受け取った。 これを櫻井は全額東京化学会へと寄付した。 これは櫻井化学研究奨励資金と名づけられ、この基金をもとに櫻井褒章が設立された。 櫻井褒章は1910年から1947年まで授与され、工業化学会との再統合後は日本化学会賞となった。

1912年に高峰譲吉はアドレナリンの発見により帝国学士院賞を受賞した。 その翌年に高峰は「国民科学研究所の設立について」と題する講演を行った。 同様の提案はすでに何人かが行っていたが、高峰の提案を機に研究所設立の計画がスタートした。 これに櫻井は渋沢栄一らとともに積極的にかかわった。 また1914年に第一次世界大戦が始まり、ドイツからの化学製品の輸入が滞ると、研究所の設立が急務となった。 こうして1917年に理化学研究所が設立され、櫻井は初代の副所長となった。

1919年に櫻井は東京帝国大学の教授職を辞した。 当時はまだ定年退職制の是非が議論されている最中であった。 彼は定年制を支持していたため、還暦をもって辞任したのであった。 なお定年制は、その後同じく定年制支持者であった古在由直が翌年に総長に就任し、1922年から東京帝国大学全体で実施されることになった。

1921年に大河内正敏が理研の3代目の所長となった。 この際に櫻井は副所長から退いた。 翌年、主任研究員制度が発足すると、櫻井は自分の門下生のほか、鈴木梅太郎喜多源逸を抜擢している。

1923年にメルボルンにおいて開催された第2回汎太平洋学術会議に出席し、3回目の会議を東京へと招聘した。 1926年に開催された同会議では議長を務めた。

1925年に万国学術研究会議の傘下である学術研究会議の会長、1926年には帝国学士院長と枢密院顧問官に就任した。 1932年には自身らの提案で設立された日本学術振興会の理事長に任命された。

1937年万国学術協会副会長として総会に出席するために訪欧し、母校のロンドン大学を訪れた。 名誉学友として推薦された返礼として晩餐会において演説を行った。

1939年に81歳で死去した。死に際して男爵位と勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。

関連人物

兄の櫻井房記は第五高等学校 (旧制)の校長を務めた。同じく兄の櫻井省三は海軍にて造船技師を務めた。 また五男の櫻井季雄も化学者であり、理研感光紙の開発者である。

門下生として池田菊苗、片山正夫、飯森里安、真島利行、田丸節郎、平田敏雄、大幸勇吉、亀高徳平らがいる。 池田菊苗の妻 貞は、櫻井錠二の妻 三の妹であるため、池田は櫻井の義弟でもある。