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'''エドウィン・ランドシーア・ラッチェンス'''(Sir Edwin Landseer Lutyens, [[1869年]][[3月29日]] – [[1944年]][[1月1日]])は[[20世紀]]始めに活動したイギリスの[[建築家]]。
 
[[ロンドン]]生まれ。ロンドンの王立美術学校に学び、設計事務所に入った後、1889年に独立。[[フィリップ・ウェッブ]]や[[リチャード・ノーマン・ショウ|ノーマン・ショウ]]ら[[アーツ・アンド・クラフツ]]の建築家から影響を受けた。また33歳上で独身の女性[[造園家]]・[[ガートルード・ジーキル]]([[:en:Gertrude_Jekyll]])と出会い、地方の古い住宅を見て回り、土着の建築から多くのものを学んだ。マンステッド・ウッド(ジーキル邸)など、ジーキルと共同で主として中世風の住宅・庭園を数多く手がけた。この間、リットン伯爵の娘と知り合い、1897年に結婚。
 
1911年に[[インド]]の遷都([[コルカタ|カルカッタ]]→[[デリー]])が決定され、翌年以降、ラッチェンスはハーバード・ベイカーと共に[[ニューデリー]]の[[都市計画]]に携わることになった。インド総督府(現インド大統領官邸)は古典様式を基調にインド建築の装飾を採り入れたラッチェンスの代表作である。このほか、古典様式のオフィスビルや戦没者の記念碑などを設計。古典様式では[[クリストファー・レン]](Wren)を模範とし、洒落でWrenaissance(レネサンス)様式と呼んだ。
 
1918年に[[ナイト|サー]]の称号を得、1938年以降は王立美術院長を務めた。ラッチェンスの建築は過去の様々な様式を折衷的に用いたものであり、[[モダニズム建築]]の立場からは時代遅れのように見られたが、イギリスの建築家として[[クリストファー・レン]]に並ぶ栄誉を受けた。
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{{DEFAULTSORT:らつちえんす えとういん}}
[[Category:イギリスの建築家]]
[[Category:都市計画家]]
[[Category:1869年生]]
[[Category:1944年没]]