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'''ハスドルバル'''
== ハスドルバル ==
▲1. '''ハスドルバル'''(Hasdrubal、[[紀元前221年]]没)は、[[カルタゴ]]の将軍。[[ハミルカル・バルカ]]の娘婿。ハミルカル死後の[[イベリア半島]]を支配した。
[[第一次ポエニ戦争]]後、ハスドルバルはハミルカルに従ってイベリア半島に赴き征服と[[植民地]]化を開始した。[[紀元前228年]]、ハミルカルが死亡すると、ハスドルバルは軍の指揮権を継承し、より強力に征服を推し進めた。一方で国内の整備にも力を注ぎ、カルタゴ・ノヴァ(現在の[[カルタヘナ]])を建設し首都とした。[[紀元前226年]]、[[共和政ローマ|ローマ]]との間に[[エブロ川]]以北に進出しない旨の盟約を結んだ。その後もハスドルバルは内政の充実に力を注いだが、[[紀元前221年]]に[[ガリア]]人の暗殺者に殺された。後継にはハミルカルの息子の[[ハンニバル]]が立った。
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ハスドルバル・バルカ(Hasdrubal Barca、[[紀元前245年]] - [[紀元前207年]] 第二次ポエニ戦争中の[[紀元前218年]]、兄のハンニバルが[[イタリア]]遠征に向かうにあたって、ハスドルバルはイベリア半島の経営を任された。以降8年間、ハスドルバルは、[[グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス|スキピオ・カルウス]]、[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ|コルネリウス・スキピオ]]の兄弟率いる[[共和政ローマ|ローマ]]軍とイベリア半島の覇権を争う。[[紀元前216年]]、ハンニバルが[[カンナエの戦い]]でローマ軍に壊滅的な打撃を与えた。しかし、イベリア半島の戦線は、コルネリウス・スキピオ兄弟によって劣勢下にあった。ハスドルバルは、弟の[[マゴ]]と別のカルタゴ将軍[[ハンニバル・ギスコ]]が引き連れてきた援軍を合わせて戦力を再編した。その一方で、地元部族を買収し、ローマ軍内のイベリア兵が脱走するように仕向けた。カルタゴ軍は少しづづ状況を好転させていき、[[紀元前211年]]の[[ベティスの戦い]]でローマ軍を破り、コルネリウス兄弟を戦死させた。
[[紀元前210年]]、[[大スキピオ]]率いるローマの援軍がイベリア半島に到着すると戦況は一変し、カルタゴ軍は敗退を繰り返すようになった。[[紀元前209年]]、[[カルタヘナ|カルタゴ・ノヴァ]]が大スキピオによって攻略された。[[紀元前207年]]、ハスドルバルはハンニバルへ援軍を届けるために、[[アルプス山脈]]を越えてイタリア半島に侵入した。しかし、合流の前にローマの二個軍団が現れ、[[メタウルス川|メタウルス]]河畔で戦いとなった。この[[メタウルスの戦い]]でカルタゴ軍は大敗し、ハスドルバルは戦死した。ハスドルバルの首は切り落とされ、ハンニバルの軍営に投げ込まれた。
3. '''ハスドルバル'''(Hasdrubal)は、[[カルタゴ]]の将軍。[[第二次ポエニ戦争]]中、[[ハンニバル]]の部下として主要な戦闘に参加した。[[紀元前216年]]、[[カンナエの戦い]]でカルタゴ軍左翼のスペイン・ガリア騎兵を指揮し、ローマ軍の騎兵を壊走に追い込む。その後、ローマ軍本隊の後方に回り込んで包囲を完成させ、勝利の立役者となった。▼
== ハスドルバル ==
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ハスドルバル・ギスコはカルタゴの将軍。第二次ポエニ戦争でヒスパニア戦線が劣勢に立たされると増援としてカルタゴから派遣された。 [[リウィウス]]からは[[ハミルカル・バルカ]]の息子との記載があり、また同じ戦線で
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