「ミシシッピ文化」の版間の差分

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ミシシッピ文化を特徴づけるものとして多くの点が認識されている。ミシシッピ文化の人々が全て下記の行動をしたというわけではないが、これらの特徴の幾つかあるいは全てを採用したということで、その前の時代の人々とは区別が出来る。
 
# 先端頂点無いピラミッド型塚すわちい断面台形のマウンド([[:en:platform mound]])の構築。これらの塚はマウンドの多くは正方形、長方形などの四辺形あるいは時に円形をしていのものもある。構造物(住居、寺院、墳墓など)がたいていはマウンドの頂上に構築された。
# [[トウモロコシ]]を基本とした農業。ほとんどの場所でミシシッピ文化の発展は比較的大規模で集中したトウモロコシ農業の採用と時期が一致する。
# 土器の硬度調整剤混和材として川の(極くまれに海の)貝を用いていること。
# 西は[[ロッキー山脈]]、北は[[五大湖]]、南は[[メキシコ湾]]、東は[[大西洋]]まで交易の範囲が拡がっていること。
# [[イングランド]]における[[古代ローマ]]以後、統一以前の種族に様々な点で比較できる社会構造におけるチーフダム首長制国家(首長により治められる社会構造、 [[:en:chiefdom]] )あるいは複雑なチーフダム様式構造をもつさまざまな首長制国家の発展。
# 制度化された社会的不平等の発展。
# 少数もしくは一人の手に、政治的および宗教的支配権力の組み合わせの集中化。
# 居住地域の階層化の開始。一つの大きな(塚のある)中心は、少数の塚を所有していようといまいと、多くの小さな集落に明らかに影響を及ぼすか支配した。
# 南東部祭礼様式」<ref>[[:en:Southeastern Ceremonial Complex]]の直訳。日本国内では一部の研究者により「サザン・カルト」の名で知られるがSoutheastern Ceremonial Complexの定訳はない。Antonio J.Waringが1945年の論文で、[[エトワー]]、[[マウンドヴィル]]、スパイロ出土のサザン・カルトのモチーフの比較分析をAmerican Anthropologist誌でこの用語を初めて用いた。</ref>、または南部[[サザン・カルト]]と呼ばれるものの具の採用。これは現在でも知られているミシシッピ人の信仰様式である。南東部祭礼様式は[[ウィスコンシン州]](アズタラン州立公園)からメキシコ湾岸、また[[フロリダ州]]から[[アーカンソー州]]や[[オクラホマ州]]にかけて発生した。これは時に、チャンキー([[:en:chunkey]])のような儀式的ゲームに結びつけられている。
 
[[画像:Spiromoundsraccoon.gif|thumb|right|150px|スパイマウンド(オクラホマ州)の壁画に描かれているアライグマ]]
ミシシッピ人は文字体系がなく、石の建築も無かった。自然に発生している金属堆積物を加工できたが、鉄を溶解したり、銅冶金の術はなかった。
== 年代学 ==
ミシシッピ文化の発展段階は通常3三期ないしそれ以上の時期にされる。これらの時期のそれぞれは地域ごとに異なるはっきりしない歴史区分である。ある場所でのそれぞれの開始時期は、上記ミシシッピ文化の特徴の採用や発展の速度によって早くなったり遅くなったりしていると考えられる。
 
初期ミシシッピ文化は後期森林ウッドランド期([[:en:Woodland period|Late Woodland]])生活様式(500)(500年から1000年)からの変化を始めた時期に相当する。異なる集団が種族の生活様式を棄てて、社会構造の複雑化、定住、集権化および農業を始めた。初期ミシシッピ文化はほとんどの場所で1000年から1200年ころと考えられる。
 
中期ミシシッピ文化はしばしば、ミシシッピ時代文化の頂点とも考えられている。[[カホキア]]史跡以外にも複雑なチーフダム首長国家が作られ、南東部祭礼様式サザン・カルトの美術や象徴体系の広がりと発展がこの時期の特徴的変化である。上記ミシシッピ文化の特徴が地域内にあまねく広まるようになった。中期ミシシッピ文化はほとんどの場所で1200年から1400年ころと考えられる。
 
後期ミシシッピ文化は通常1400年ころからヨーロッパ人による接触までと考えられ、戦争の増加、政治的動揺および人々の移住で特徴付けられる。カホキアの人々はこの時期の早くに(1350年-1400年)分散し、恐らくは他の新しく政治的中心力をもった祭祀センターに移動した。場所によってより防御柵など施し築いているのが観察され、時にマウンドを築いたり儀式を重んじたりすることは減少した。ある地域ではヨーロッパ人との最初の意味ある接触まで実質的に中期ミシシッピ文化に留まっていたが、ほとんどの地域では1500年までに散り散りになるか、厳しい社会的な緊張感を経験していた。
 
== ヨーロッパ人との接触 ==
学者達は、エルナンド・デ・ソトが[[1534年]]から[[1539年]]に行った探検の記録で、ミシシッピ人と接触した証拠を探した。デ・ソトは幾つかの集落を訪れ、ある場合には客として1ヶ月以上そこに滞在した。暴力を揮う遭遇者がおれば、比較的平和的な者もいた。デ・ソトは長く続く先住民の不和の中で道具としてあるいは同盟者として使われたと思われる。例えば、パカハ族とカスキ族の間の休戦を交渉した。しかし、デ・ソトの後期の遭遇者はスペイン人の約半分と恐らく多くの先住民を死なせたままにした。デ・ソトの年代記はミシシッピ人について書かれた最初の文書であり、これらの人々の文化的慣習について貴重な情報源となっている。
 
デ・ソト遠征隊の崩壊と逃亡の後で、ミシシッピ人はほとんどヨーロッパの直接影響がないままにその生活様式を続けた。しかし間接的にヨーロッパ人がもたらしたものが、合衆国東部の様相を変えた。疫病が多くのチーフダム首長制国家の社会秩序をせ、一方ある集団ではヨーロッパの馬を採用して[[遊牧民]]に戻った。<ref>Bense pp. 256-257, 275-279</ref>多くの場所では政治構造が崩壊した。文書による証拠が残された時までに、ミシシッピ人の生活様式は決定的に変化した。ある集団ではマウンドを造っていた時代に遡る口承を維持した(例えば19世紀遅くの[[チェロキー]]族<ref>Hudson pp. 334</ref>)。他の先住民集団は何百マイルも移動して、年長者が病気で死に、その先祖が各地に点在するマウンドを築いたことを忘れた。このことは1894年にサイラス・トーマスによって公式に著された『塚造営者マウンドビルダーの神話』に結実した。
 
== 知られているミシシッピ文化のチーフダム首長制国家 ==
ミシシッピ文化は政治的な地図を完全に理解して書き残される前にかなりの程度崩壊したが、多くのミシシッピ文化の政体は今でも知られている。これらを下記に示す。
* エンジェルマウンド([[:en:Angel Mounds]]):[[インディアナ州]]南部のチーフダム
* アズトラン州立公園([[:en:Aztalan State Park]]):ウィスコンシン州にある小さなミシシッピ文化部族。大きなミシシッピ文化の北端。
* [[カド]]:有史および現代のカド先住民族は少なくとも一つのミシシッピ文化チーフダムの首長制国家から派生したと知られており、現在の[[ルイジアナ州]]ナチトチェと[[テキサス州]]ナコグドチェスに主要な首長制国家の祭祀センタフダム中心があった。
* カホキア:[[イリノイ州]]イーストセントルイス近くに、カホキアはおそらく最初のまた確かに最大で最も影響力あるミシシッピ塚の中心であった。
* イリノイ州[[イーストセントルイス]]:カホキアの西、ミシシッピ州[[セントルイス]]の東にあり、この塚中心は現在のイーストセントルイスにあって、一部は市道の下にまた裏庭に保存されている。
* [[エトワー]]:別の主要ミシシッピチーフダム文化の首長制国家。[[ジョージア州]]にあり、マウンドビル政治組織の長い敵対者であると信じる者もいる。
* ジョアラ([[:en:Joara]]):ヨーロッパ人が接触したときの[[ノースカロライナ州]]で最大のチーフダム。最も北東のミシシッピチーフダム中心であった可能性もある。
* キンケイド・マウンズ州立歴史史跡([[:en:Kincaid Mounds State Historic Site]]):[[ケンタッキー州]]パデューカから[[オハイオ川]]を渡った所。主要ミシシッピ塚中心文化の祭祀センター
* オクマルギー国立史跡([[:en:Ocmulgee National Monument]]):オクマルギーはミシシッピチーフダム文化の首長制国家であり、この場所は後の有史時代に[[クリーク族]]インディアンに使われた。
* [[マウンドヴィル|マウンドビル考古学史跡]]:カホキアと並び、古典的ミシシッピ文化の中核となる最も重要な2つの場所の一つ<ref name="mississippian">{{cite web|title="Southeastern Prehistory: Mississippian and Late Prehistoric Period"|work="National Park Service"|url=http://www.nps.gov/history/seac/outline/05-mississippian/index.htm|accessdate=2007-12-04}}</ref>。[[アラバマ州]][[タスカルーサ (アラバマ州)|タスカルーサ]]近くにある。
* ノデナ史跡([[:en:Nodena Site|The Nodena Site]]):ノデナは1400年頃から1700年頃の後期ミシシッピ文化の重要な要素、ノデナ段階に典型的な場所。
* パーキン跡([[:en:Parkin Archeological State Park|The Parkin Site]])
* ミズーリ州セントルイス:主要なミシシッピ塚中心文化の祭祀センター。現在はほとんど全部が破壊されており、かってはセントルイスの中心街であったので、セントルイスは「マウンドの市」という渾名がある。
* スパイマウン([[:en:Spiro Mounds]]):ミシシッピ文化で最も考古学的な研究が進んだ考古学的中心祭祀センターの一つ。[[オクラホマ州]]東部にある。
* タウンクリーク・インディアンマウンド([[:en:Town Creek Indian Mound]]):ノースカロライナ州のミシシッピチーフダム文化の首長制国家。一般に歴史的ピーディー族のものとされる。
* ウィクリフマウン([[:en:Wickliffe mounds]]):ケンタッキー州西部のチーフダム
* ウィンタービル跡([[:en:Winterville Site]]):ミシシッピ文化ウィンタービル段階の典型的場所な遺跡
 
== 関連する現代の種族 ==