削除された内容 追加された内容
Mizusumashi (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
m編集の要約なし
6行目:
 
==思想史==
中世盛期[[スコラ学]]以降は、essentia (本質存在)は[[実存]](現実存在 エクシステンティア exsistentia)の対概念とされてきた。
 
元来[[アリストテレス]]のウーシアは「存在するもの」という語構成を持っている語で、「本当に実在するもの」を意味し、彼にとってはまずもってそれは[[イデア]]ではなく具体的な個物であった。この[[形相]][[質料]]とからなる個物は、[[述語]]として用いられうる普遍者としての第二実体に対比された場合、主語としてしか用いられない基体としての第一実体と呼ばれる。ここからさらに、その個物の素材である「質料 ヒュレー」ではなく、その「形相 エイドス」こそが、ものの真の実在性を担っているという考えにたったとき、個々のものの本質としては質料と対比された形相のほうが第一の実体であると説かれる。すなわち、彼にとってウーシアという言葉は[[実体]]という含意と本質としての形相という含意をともに持っていた。
 
これがラテン語に翻訳されるとき、substantia と essentia という二つの訳語が行われた。substantia は、ウーシアと同義で用いられていた[[位格|ヒュポスタシス]]「下に立つもの」(のちに[[キリスト教]][[神学]]の文脈ではウーシアとヒュポスタシスは区別されるようになった。この場合の訳語はpersona)の直訳で基質としての実体という観点からの訳語であり、essentia は「あるところのもの」という観点からの訳語であった。
 
アリストテレス的枠組みに立つ限り両者は区別されず訳語の違いにすぎなかったが、中世盛期スコラ学、具体的には[[トマス・アクィナス]]以降、実体 substantia と本質 essentia は区別されるようになった。ただし、このときでも[[近代哲学]]とは異なり、本質こそが実在であるという[[観念論]]的な枠組みは維持された。存在は、本質として概念的に存在している実体と、本質に現実存在( existentia )がプラスされた、現実的に存在する実体とに区分されたのである。
 
なお、概念が本質存在する([[概念]]として存在する)ということは、単に文法的・形式的な理由で名目的に表現可能であるというだけではなく、論理的[[矛盾]]なく想定可能だということを指す。言語の不備から、曖昧な、あるいは矛盾を孕む概念が観念されることはありうる。しかし、そうした名目的概念は、その名辞に対応する実体を持たないと考えられた。しかし、このことはかならずしもその概念に対応するものが現実存在するということを保障しない。概念から最高存在の現存在を証明する実体論的証明を退けた者には[[カント]]がいる([[純粋理性批判]])。
 
このことは可能や不可能など[[様相]]を問題にする場面でとくに問題となり、また現代では[[ハイデッガー]]や[[実存主義]]によって、[[存在]]するということがものの[[本質]]や属性に含まれないという点から着目された。たしかに[[デカルト]]などにとっては、たとえば神はその完全性のうちに存在を含むものであった。しかし、存在するものとしてしかその本質が考えられない([[スピノザ]])、というだけでは、やはりそのものは現実存在するとは限らないとの批判がたとえば[[カント]]などからなされている。すなわち、[[述語]]として考えたときに「存在する」という述語は、他の述語にはないやや特異な位置を占める。
 
{{see also|神の存在論証}}
なおアリストテレスの上述の議論を継承した中世の[[普遍論争]]においては、実在するものは個物であるとする立場にたつ[[唯名論]]と、普遍(形相)こそが実在である[[実在論]]とが対立した。<!--これを実在論の立場から両者を調停したトマス・アクィナスは、普遍は神の知性においては事物に先だってante rem存在し、世界の中においては事物の中in reに存在し、そして人間の知性においては事物の後にpost rem存在するとしている。-->
==関連項目==
* [[三位一体]]