「マクシミリアン・ロベスピエール」の版間の差分

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'''マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール'''(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre,[[1758年]][[5月6日]] - [[1794年]][[7月28日]])は[[フランス革命]]期の[[政治家]]。[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]を目指した[[ジャコバン派]]のリーダー。粛清による恐怖政治で多くの反対派を断頭台に送ったため「'''ルソーの血塗られた手'''」と呼ばれた。
 
==生涯==
[[フランス]]北部・[[アルトワ州]][[アラス]](現在の[[パ=ド=カレー県]])生まれ。貧しい苦学生で秀才の誉れ高く、学生代表として雨の中、膝をついて[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の行幸を出迎えたという。皮肉なことに後にロベスピエールは、[[国民公会]]において、ルイ16世を激しく非難し、即時処刑すべきと主張した。
 
[[アラス大学]]卒業後、判事を経て、アルトワ州高等法院で[[弁護士]]となり、学会にも選出された。このころ発表した『刑事事件の加害者の一族もその罪を共有すべきか』という[[論文]]は高く評価された。
 
[[1789年]]、30歳にして、[[三部会]]のアルトワ州第三身分代表として政治の世界に身を投じジャコバン派内の[[山岳派]]に属し[[ジロンド派]]内閣が推進した対外戦争に反対した。
 
[[サン・キュロット]]の支持を得て、1793年6月2日、[[国民公会]]からジロンド派を追放し権力を掌握すると、公安委員会、保安委員会、革命裁判所などの機関を通して[[恐怖政治]]([[Terreur]]:(Terreur:テルール - [[テロ]]の語源)を断行し反対派を[[ギロチン]]台に送った(彼自身"terreur"を必要なものだと信じ、「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」と主張した)。[[1793年]][[7月13日]]の盟友[[ジャン・ポール・マラー|マラー]]の死に際しては、マラーを神格化することでジロンド派の支持を奪い、さらにジャコバン派内部でのロベスピエールのリーダーシップを不動にした。最左派[[ジャック・ルネ・エベール|エベール]]一派と右派[[ジョルジュ・ダントン|ダントン]]一派を[[粛清]]して、自己の理想とする独立小生産者による共和制樹立を目指した。このころから、自らの主体的な神の定義を議会で通すなど横暴が目立つようになる。
 
彼は国民軍を革命の防衛のために必要だと考えて強化したが、逆にこれこそが革命を終わらせるものだと気付かなかったと言われる。
対外戦争([[フランス革命戦争]])が好転し国内危機が一段落すると、1794年7月27日([[フランス革命暦|革命暦]]II年テルミドール9日)、反ロベスピエール派は結束してロベスピエールを[[逮捕]]した。([[テルミドールのクーデター]])。この時ロベスピエールは、[[ピストル]]で顎が吹き飛ぶ重傷を負ったが、それは自殺の失敗と最後の抵抗の時に撃たれたとの説がある。傷の出来方の科学的な見地からは自殺の失敗の説でほぼ間違いないのだが、後にナポレオン軍で将校になる[[シャルル・アンドレ・メルダ]]がロベスピエールを撃ったと自称し、その光景を描いた絵が流布したため、後者の説の方が広く知られている。また、ロベスピエールのわが道を行く政治手法が、自殺するような人物ではなく、最期まで抵抗するという人物像を作り上げたのかもしれない。
 
その側近の[[ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト|サン=ジュスト]]、[[ジョルジュ・クートン]]らとともに[[ギロチン]]によって[[処刑]]された(ギロチンに上ったときは口にハンカチを巻いていた)。