削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m編集の要約なし
4行目:
遥任は奈良期の頃から行われていたが、ごく稀であった。奈良期はまだ、[[律令制]]による統治が有効に機能しており、律令制に基づく支配を地方まで貫徹するため、国司が任地へ赴き、現地支配を行う必要があったためである。
 
しかし、[[平安時代|平安期]]に入ると、[[弘仁]]年間には[[議政官]]にも関わらず職封(封戸)が低かった[[参議]]に対して国守との兼務・遥任を認める例が慣例として現れ([[参議兼国制]])<!-- 時野谷滋『律令封禄制度史の研究』(吉川弘文館、1977年) ISBN 4-6420-2069-1 -->、[[天長]]年間に[[上総国]]、[[常陸国]]、[[上野国]]が[[親王任国]]に定められた。親王任国とは、増加した[[親王]]に官職をあてがうため、特定の国の長官([[国守]])に親王を当てることとしたもので、親王が現地へ赴任することはまずあり得ず、いわば遥任を朝廷公認で制度化したのである。
 
[[9世紀]]・[[10世紀]]頃になると、各地で[[富豪]]と呼ばれる有力農民が登場・成長していた。[[古代の戸籍制度|戸籍]]・[[班田収授法|班田]]などによる律令制的な人別支配の維持が困難となっていた当時、国司は[[公田]]を[[名田]]という単位へ再編するとともに、有力農民層([[田堵]]という)へ名田の経営と名田からの租税徴収を請け負わせていった。こうした支配体制を名体制(みょうたいせい)または王朝体制(おうちょうたいせい)などというが、これにより、国司は一定の租税収入を確保することができるようになった。