「親王任国」の版間の差分

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[[桓武天皇]]は非常に多くの皇子・皇女を残し、続く[[平城天皇]]及び[[嵯峨天皇]]も多くの皇子・皇女に恵まれたが、このため天長3年当時、多数ある親王家を維持する財源と親王に充てるべき官職が不足していた。清原夏野はこうした課題に加えて、当時親王が[[八省卿]]を兼務する慣例が成立していたことに問題<ref>親王は[[後宮]]において大切に育てられたために世情に通じていないこと、加えて省の職員に不祥事があった場合に上司にあたる八省卿の親王が連座する危険性があることを指摘した。</ref>があることを指摘して、こうした問題を解決するため、親王任国の制度を奏上した<ref>なお、[[中納言]]である[[良峯安世]]も、天長初年より、国司制度の改革を唱える意見書を度々出しており(『類聚三代格』)、清原夏野の提案も良峯安世の改革論との関連が考えられている。また、親王任国制のモデルは、[[参議]]による国司兼官制に求められると見られている。</ref>。当初は[[淳和天皇]]の治世だけに限定して始められたが、結局この制度はその後も存続し、[[平安時代]]を通じて定着することとなった。
 
親王任国に充てられたのは、[[常陸国]]、[[上総国]]、[[上野国]]の3国である。いずれも大国だった<ref>この3国が選定された理由について不明であるが、[[時野谷滋]]は常陸については、同国が田積(田の面積)が4)4万町を誇り(『[[和名類聚抄]]』)、なおかつ[[正税]]・[[公廨稲]]がそれぞれ50万束(『[[延喜式]]』)と大国中で屈指の国であったこと、この天長3年に常陸守[[甘南備高直]]が前任者との交替の際の失態が明らかにされて更迭された(『[[続日本後紀]]』[[承和_(日本)|承和]]3年4月18日条)結果、常陸守が空席であった事を指摘して、同国選定の背景としている。</ref>。これら3国の国司筆頭官である国守には、必ず親王が補任されるようになった。親王任国の国守となった親王は「太守」と称した。親王太守の[[官位]]は、必然的に他の国守より高く、通常は[[従五位上]]から[[従六位下]]であるのに対して親王任国の太守は[[正四位下]]とされた<ref>なお、四品親王の場合、[[弾正尹]]に任じられる場合には「守」、太守に任じられる場合には「行」と記されている(『[[三代実録]]』)。</ref>。
 
天長3年に初めて3国の太守に任じられたのは、[[賀陽親王]](常陸太守)、[[仲野親王]](上総太守)、 [[葛井親王]](上野太守)で、いずれも桓武天皇の皇子であった。
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名目としての親王任国はその後も継続した。[[織田信長]]が「上総介」を僭称し[[松平忠輝]]が任官し、[[本多正純]]、[[吉良義央]]、[[小栗忠順]]が「上野介」を任官したのも、名目のみとは言え、「上総守」「上野守」の官職が親王のみにしか許されなかったからである。
 
== 脚注 ==
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