「エンリケ・ホルダ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 新しいページ: '{{クラシック音楽}} '''エンリケ・ホルダ'''('''Enrique Jordá'''、1911年3月24日 - 1996年3月18日)は、スペイン生...'
 
誤字訂正, link, カテゴリ
2行目:
'''エンリケ・ホルダ'''('''Enrique Jordá'''、[[1911年]][[3月24日]] - [[1996年]][[3月18日]])は、[[スペイン]]生まれの[[アメリカ]]の[[指揮者]]。
 
ヴァイオリンを愛好する海軍士官父親とピアニストの母親との間に[[サンセバスチャン]]で生まれる。
 
幼い頃から良心から音楽の手ほどきを受けるが、父親は5歳のときに死去。
幼い頃から両親から音楽の手ほどきを受けるが、父親は5歳のときに死去。地元の教会のボーイ・ソプラノとして12歳まで活動した後、16歳には教会[[オルガニスト]]のアシスタントとなった。
 
[[マドリード・コンプルテンセ大学|マドリード大学]]に進学後、1929年にフランスに留学し、[[マルセル・デュプレ]]にオルガンを、[[ポール・ル・フランレム]]に作曲を、[[フランツ・リュールマン]][[指揮法]]を師事した。
1937年には指揮者としてパリでデビューを果たし、1940年にスペインに戻ってマドリード交響楽団の首席指揮者となった。
 
1945年にマドリードの職を辞し、1948年からケープタウン交響楽団の首席指揮者を務め、1954年には[[サンフランシスコ交響楽団]]の首席指揮者となった。
1937年には指揮者としてパリでデビューを果たし、1940年にスペインに戻って[[マドリード交響楽団]]の首席指揮者となった。1945年にマドリードの職を辞し、1948年から[[ケープタウン交響楽団]]の首席指揮者を務め、1954年には[[サンフランシスコ交響楽団]]の首席指揮者となった。1963年にサンフランシスコを離れ、1970年から1976年まで[[アントウェルペン・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席指揮者を務めた。
 
1982年から1984年までエウスカディ管弦楽団(現:[[バスク国立管弦楽団)]])の首席指揮者を務めた後は、フリーの立場で世界各地のオーケストラに客演した。
 
[[ブリュッセル]]で死去。
 
{{DEFAULTSORT:ほるた えんりけ}}
{{Classic-stub}}
[[Category:アメリカ合衆国の指揮者]]
[[Category:スペインの指揮者]]
[[Category:1911年生]]
[[Category:1996年没]]