「教皇派と皇帝派」の版間の差分

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しかし、北イタリアではホーエンシュタウフェン朝が積極的に[[イタリア政策]]を進めたため、これを支持する[[都市]]がギベリン、これに抵抗して教皇の支持を求めた[[ロンバルディア同盟]]などの都市がゲルフと呼ばれた。一般的には、貴族は皇帝派が多く、都市市民は教皇派が多かったといわれるが、単に対立勢力が皇帝派になったから教皇派になるといった例も多かった。
 
ゲルフ対ギベリンの争いは、1250年に[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が亡くなり、1268年にホーエンシュタウフェン家の最後の王[[コッラディーノ]]が教皇の意を受けた[[シャル1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]により[[処刑]]されたためゲルフの勝利として一旦終結したが、間もなくシャルルに対抗するものがギベリンと呼ばれるようになり、以降[[フランス王国|フランス]]、[[ナポリ王|ナポリ]]、教皇系をゲルフ、[[ドイツ]]、[[スペイン]]系がギベリンとなるが、実情は、単なる都市間、都市内の派閥争いだった。皇帝[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]や教皇[[ベネディクトゥス12世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス12世]]も、ゲルフ対ギベリンと称して対立することを禁じたが、[[ルネサンス]]期を通じて、この呼称はしばしば使用された。
 
ゲルフとギベリンの抗争に関して、よく[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]が言及されるが、実際はゲルフ内の白、黒派の対立によるものである。しかし、教皇の意による[[フィレンツェ]]追放後は、ダンテの友人たち白派は対抗上ギベリンに接近しため、ギベリンと間違えられることがある。